「天皇」という称号は、大和朝廷の発生時から用いられていたものではない。それは、七世紀末の天武天皇のときにはじめて使われたものだ。それまでは「大王」が朝廷の支配者とされていた。
「大王」から「天皇」への転換は、朝廷の性格を大きくかえて、それから後の天皇制のありかたを規定することになった。大和朝廷の成立期の大王は、国内に多くいた主長の一人と大してかわならい権威しかもっていなかった。
あちこちにいる「キミ」のなかの有力なものが「オオキミ」である。大和朝廷の指導者としての大王は、六世紀はじめまでは、その程度のものであった。
大和朝廷は、三世紀なかばに誕生した。奈良盆地の東南部にある三輪山のふもとを勢力圏とする勢力であった。奈良県櫻井市の纒向遺跡は、初期の大和朝廷の本拠地のあとである。
そこに居住した集団は、大和川とその支流を用いて積極的に交流を行い、巨大な古墳を生み出した。このような大和朝廷の指導者が大王であった。かれは、はじめは大和の地をまもる神の祭司の資格で、人びとを指導した。
つまり、かれは『魏志倭人伝』が、
「鬼道につかえて、よく衆を惑わす」
と記した邪馬台国の卑弥呼とほぼかわらない立場にあった。
大和の土地の神は、「大和の国魂」とよばれた。それは、のちに大物主神の名で、三輪山のそばの大神神社で祭られるようになる。
大王は、位についたときに「大和の国魂」と一体化すると考えられた。天皇が即位ののちに行う大嘗祭は、神霊をよびこんで新しい天皇の体に付ける儀式である。それが行われてはじめて、天皇は人間の体をもちながら神の力を使う「現人神」にかわるとされた。
天皇号が作られた時期に、「大和の国魂」は単に「みたま」とよばれるようになり「天皇霊」と書かれはじめる。これは、天皇が大和国だけの支配者ではなく、日本全体の支配者だとする発想からなされた転換である。