結局、2・26クーデターは失敗に終わった。
一番の失敗は、明治維新のときに、維新派が、まず天皇を手中にしたように、宮中を占拠して天皇を掌握しなかったことだ。天皇を掌握し、青年将校たちの意思を天皇自みずから天皇の言葉でいわせたならば、軍幹部も、重臣も政治家たちも、青年将校たちのいうままに動いたことだろう。だが、青年将校たちは、そんなことは夢にも考えていなかった。何よりも、クーデターを起こした後のプログラムすら全く作っていなかった。
天皇は、君側の奸たち、そして国をねじ曲げている政、財の巨悪を取り除くという青年将校たちの必死の思い、行動を誰よりも理解されている。行動さえ起こせば、そして軍の幹部が説明すれば、天皇はただちに的確な聖断――青年将校たちが想定しているような判断を下し、真崎を中心に、新しい軍事政権が作られるもの、いってみればクーデターの決起将校たちは自分たちの夢想がそのまま実現すると信じ込んでいたのだ。
だが、天皇は、いきなり「昭和維新」の決起は叛乱だと決めつけた。
この点については御廚貴に問うた。
「彼らは、天皇の聖断を得て、軍人内閣をつくる、というシナリオは書いていた。ところが、彼らが宮中に乗り込ませた軍人たちは、決定的に天皇の信頼を失っていて、天皇に対してもの申すことが全く出来なかったわけですが、青年将校たちは、そんな状態だとはまるで知らなかった。根本的誤算です」
また秦郁彦は、「天皇は合理主義者で、皇道派が唱える精神主義をとことん嫌っていた。ようするに美濃部達吉の〝天皇機関説〟を支持し、天皇親政などあり得ないと考えていた」のだと説明した。
2・26クーデターを敢行する必然性は、当時の政治、経済、社会情勢を点検する限りでは皆無といってよく、つまりは若い将校たちが北一輝などに洗脳された思い込みゆえの暴走なのだといえるが、この事件のもたらした影響は、きわめて大きかった。
軍部の発言権が強まり、露骨に介入するようになったのである。なぜなら、2・26事件が、天皇や西園寺が頼みとする人物を一掃してしまったからである。不幸にも決起青年将校たちの狙い通りになってしまったのである。
2008年3月29日土曜日
第四十一回 -青年将校たちの夢「天皇親政」-
それでは、磯部たち、2・26事件の青年将校たちは、北の『改造法案』のどこに魅了され、なにゆえに聖典とまで仰いだのか。 『軍ファシズム運動史』の著者である秦郁彦(日本大学教授)に問うた。
「それは、やはり内政的には弱者の味方で金持ち、権力者などを抑えつける、いわゆる弱者の正義の鼓吹と、弱者、貧乏国は大国と戦い、広い領土を獲ってもいいぞ、という、軍人にとってのロマン・・・、もちろん誤りなんですがね」
秦は苦笑していい、「それと、日本改造のため、諸悪の根元である君側の奸を討つクーデターを行う。それを行うのは軍人だというのだから、若い憂国の将校たちは感激し、意気に感じるわけです」と指摘した。秦は「2・26の将校たちがほとんど『改造法案』のポケット判を背嚢に忍ばせていた」(『軍ファシズム運動史』)と書いている。
御廚貴(政策研究大学院大学教授)にも問うた。
「やはり、貧富の差をなくすという、共産主義にも似たラジカルな主張でしょう。自由主義経済がもたらしたのは貧富の差の拡大と、汚職、腐敗の蔓延だけで、これはダメだと。そして国家社会主義にすると。これは純朴な青年将校には、実にわかりやすいと思いますよ」
ともあれ、北の『日本改造法案大綱』は青年将校を魅了した。 青年将校たちは、「政治に一切関わらず」の一線を越えると同時に「テロも当然」、つまり、「政治体制を変えるという正しいことをやるのだから、何をよってもよい」という方向へ走っていった。
それでは彼らの「正しい政治体制」とは何なのか。
青年将校たちは、政党政治が天皇の意思をねじ曲げて、国を曲げていると思い込んだ。これには北一輝の日本改造法案などが強く影響しているのだが、ともかく彼らは、ならば天皇親政、つまり「天皇と軍、つまり自分たちとが直接結びつく政治にすべきだ」と考えた。
青年将校たちはそれが天皇のためだと信じ、それ以上のことは思いもしなかったにちがいないが、これは軍が、天皇の名のもとに、何事でも、意のままに出来る体制でもある。
だからこそ、軍幹部(とくに皇道派)たちは、青年将校たちのクーデター計画に反対ではなく、それをいかに利用しようかと考えていたのだ。
「それは、やはり内政的には弱者の味方で金持ち、権力者などを抑えつける、いわゆる弱者の正義の鼓吹と、弱者、貧乏国は大国と戦い、広い領土を獲ってもいいぞ、という、軍人にとってのロマン・・・、もちろん誤りなんですがね」
秦は苦笑していい、「それと、日本改造のため、諸悪の根元である君側の奸を討つクーデターを行う。それを行うのは軍人だというのだから、若い憂国の将校たちは感激し、意気に感じるわけです」と指摘した。秦は「2・26の将校たちがほとんど『改造法案』のポケット判を背嚢に忍ばせていた」(『軍ファシズム運動史』)と書いている。
御廚貴(政策研究大学院大学教授)にも問うた。
「やはり、貧富の差をなくすという、共産主義にも似たラジカルな主張でしょう。自由主義経済がもたらしたのは貧富の差の拡大と、汚職、腐敗の蔓延だけで、これはダメだと。そして国家社会主義にすると。これは純朴な青年将校には、実にわかりやすいと思いますよ」
ともあれ、北の『日本改造法案大綱』は青年将校を魅了した。 青年将校たちは、「政治に一切関わらず」の一線を越えると同時に「テロも当然」、つまり、「政治体制を変えるという正しいことをやるのだから、何をよってもよい」という方向へ走っていった。
それでは彼らの「正しい政治体制」とは何なのか。
青年将校たちは、政党政治が天皇の意思をねじ曲げて、国を曲げていると思い込んだ。これには北一輝の日本改造法案などが強く影響しているのだが、ともかく彼らは、ならば天皇親政、つまり「天皇と軍、つまり自分たちとが直接結びつく政治にすべきだ」と考えた。
青年将校たちはそれが天皇のためだと信じ、それ以上のことは思いもしなかったにちがいないが、これは軍が、天皇の名のもとに、何事でも、意のままに出来る体制でもある。
だからこそ、軍幹部(とくに皇道派)たちは、青年将校たちのクーデター計画に反対ではなく、それをいかに利用しようかと考えていたのだ。
第四十回 -北一輝の右翼社会主義思想-
北一輝の『日本改造法案大綱』とはどんなものか。
北は、まず天皇を「国民の総代表」と規定した。天皇を神格化していないのがおもしろい。そして「国民と共に国家改造の根基を定め」るために、天皇大権を発動して、三年間憲法を停止し、両院を解散し、戒厳令を布く、と定めた。その間に国家改造内閣をつくるのだが、その前に、宮中の一新を図り、華族制度を廃止し、貴族院もやめて審議院を置く。
国民の私有財産限定を100万円とし、それ以上は無償で国家に納付する。私有地の限度は時価10万円とし、それ以上は国家に納付させる。納付された土地は、土地を持たぬ農業者に分割し、年賦で購入させる。都市の土地は全て市有とした。
また、私企業の限度は資本金1000万円以内とし、それ以上の企業は全て国営化するとも定めた。そして資本家、経営者たちが私腹を肥やせなくなった金は、国民の生活保障に使われるとなっていた。これでは事実上、自由主義経済の否定だ。北は、自由競争は、貧富の差を拡大する悪しき制度だと否定した。この点は左翼と同じである。
富裕層に厳しく、低所得層、つまり弱者の立場に立つ。これは『国体論』以来の北の持論であり、何よりも共産主義を意識して強調したのだった。
北は、天皇の財産も国家に下附する、と定めた。
「天皇は自ら範を示して皇室所有の土地山林株券などを国家に下附し、皇室費を年間約3000万円とす」というのである。
もう一つ、北の『改造法案』が力説しているのは、「国家は国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す」という一条であった。
要するに、貧乏国日本が、極東シベリアやオーストラリアなどを領有している大国と戦争をするのは当然の権利だと宣言しているのである。内政面では私有財産の制限など、弱者の立場に立って富裕層を縛り、対外政策では、それと同じ論理で侵略戦争を是認したわけだ。
北は、まず天皇を「国民の総代表」と規定した。天皇を神格化していないのがおもしろい。そして「国民と共に国家改造の根基を定め」るために、天皇大権を発動して、三年間憲法を停止し、両院を解散し、戒厳令を布く、と定めた。その間に国家改造内閣をつくるのだが、その前に、宮中の一新を図り、華族制度を廃止し、貴族院もやめて審議院を置く。
国民の私有財産限定を100万円とし、それ以上は無償で国家に納付する。私有地の限度は時価10万円とし、それ以上は国家に納付させる。納付された土地は、土地を持たぬ農業者に分割し、年賦で購入させる。都市の土地は全て市有とした。
また、私企業の限度は資本金1000万円以内とし、それ以上の企業は全て国営化するとも定めた。そして資本家、経営者たちが私腹を肥やせなくなった金は、国民の生活保障に使われるとなっていた。これでは事実上、自由主義経済の否定だ。北は、自由競争は、貧富の差を拡大する悪しき制度だと否定した。この点は左翼と同じである。
富裕層に厳しく、低所得層、つまり弱者の立場に立つ。これは『国体論』以来の北の持論であり、何よりも共産主義を意識して強調したのだった。
北は、天皇の財産も国家に下附する、と定めた。
「天皇は自ら範を示して皇室所有の土地山林株券などを国家に下附し、皇室費を年間約3000万円とす」というのである。
もう一つ、北の『改造法案』が力説しているのは、「国家は国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す」という一条であった。
要するに、貧乏国日本が、極東シベリアやオーストラリアなどを領有している大国と戦争をするのは当然の権利だと宣言しているのである。内政面では私有財産の制限など、弱者の立場に立って富裕層を縛り、対外政策では、それと同じ論理で侵略戦争を是認したわけだ。
第三十九回 -2・26事件について-
「天皇陛下は15名の無双の忠義者を殺されたのであらふか
そして陛下の周囲には国民が最もきらつてゐる国奸等を近づけて
彼らの云ひなり放題に御まかせになつているのだらふか
陛下吾々同志程国を思ひ
陛下の事をおもふ者は日本中どこをさがしても決しておりません
その忠義者をなぜいぢめるのでありますか (中略)
陛下の赤子を殺すのでありますぞ
殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります
陛下の御耳に達しない筈はありません (中略)
何と云ふ御失政でありませう」
磯部浅一の「獄中日記」の一節である。
処刑された2・26事件の青年将校たちの中で、天皇に対する怒りをぶちまけているのは、磯部ただ一人だ。処刑されたとき磯辺は32歳。彼は、2・26事件の青年将校の中のリーダー格で、最も過激に、純粋に「天皇のための革命=昭和維新」に、いわば突進して行った人物であり、だからこそ、彼を裏切ったといえる天皇に憤ったのである。
磯辺は、たとえば、1933年の夏、2・26事件のリーダーとなる同志たち、村中孝次、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀が集まったとき、
「もう待ちきれん、われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだみんなそう思わんか」
と地団太を踏むように吐き捨てている(大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』)。
山崎國紀(『磯部浅一と二・二六事件』)によれば、「破壊だ、破壊だ、徹底的にたたき割るんだ」というのが、磯部の口癖となっていたようだ。
「起ち上がる」、あるいは「破壊」とは、もちろん天皇を国民から疎隔し、「私心我欲を恣(ほしいまま)」にしている「元老、重臣」たちをたたき殺すこと、つまり昭和維新を敢行することだった。
それでは、なぜ、磯辺は、そして彼の同志たちは、それほどまでに「昭和維新」を思い詰めたのか。
松本清張は、彼らの「理論の拠りどころとなったのは北一輝の『日本改造法案大綱』である」(『昭和史発掘6』)と書き、佐々木二郎は、「とくに磯辺は(『日本改造法案大綱』の)無二の信奉者だった」と指摘している。
また山崎國紀も、「磯部らの、革命プランの『聖書』となったのが、北一輝の『日本改造法案大綱』であった」と書いているし、磯辺は2・26事件で逮捕され、死を目前にした獄中でも、『日本改造法案大綱』の書写をしている。
それでは、『日本改造法案大綱』が、そのどこが、磯部たち青年将校を、それほど魅了し、彼らに決起を決意させたのだろうか。
そして陛下の周囲には国民が最もきらつてゐる国奸等を近づけて
彼らの云ひなり放題に御まかせになつているのだらふか
陛下吾々同志程国を思ひ
陛下の事をおもふ者は日本中どこをさがしても決しておりません
その忠義者をなぜいぢめるのでありますか (中略)
陛下の赤子を殺すのでありますぞ
殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります
陛下の御耳に達しない筈はありません (中略)
何と云ふ御失政でありませう」
磯部浅一の「獄中日記」の一節である。
処刑された2・26事件の青年将校たちの中で、天皇に対する怒りをぶちまけているのは、磯部ただ一人だ。処刑されたとき磯辺は32歳。彼は、2・26事件の青年将校の中のリーダー格で、最も過激に、純粋に「天皇のための革命=昭和維新」に、いわば突進して行った人物であり、だからこそ、彼を裏切ったといえる天皇に憤ったのである。
磯辺は、たとえば、1933年の夏、2・26事件のリーダーとなる同志たち、村中孝次、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀が集まったとき、
「もう待ちきれん、われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだみんなそう思わんか」
と地団太を踏むように吐き捨てている(大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』)。
山崎國紀(『磯部浅一と二・二六事件』)によれば、「破壊だ、破壊だ、徹底的にたたき割るんだ」というのが、磯部の口癖となっていたようだ。
「起ち上がる」、あるいは「破壊」とは、もちろん天皇を国民から疎隔し、「私心我欲を恣(ほしいまま)」にしている「元老、重臣」たちをたたき殺すこと、つまり昭和維新を敢行することだった。
それでは、なぜ、磯辺は、そして彼の同志たちは、それほどまでに「昭和維新」を思い詰めたのか。
松本清張は、彼らの「理論の拠りどころとなったのは北一輝の『日本改造法案大綱』である」(『昭和史発掘6』)と書き、佐々木二郎は、「とくに磯辺は(『日本改造法案大綱』の)無二の信奉者だった」と指摘している。
また山崎國紀も、「磯部らの、革命プランの『聖書』となったのが、北一輝の『日本改造法案大綱』であった」と書いているし、磯辺は2・26事件で逮捕され、死を目前にした獄中でも、『日本改造法案大綱』の書写をしている。
それでは、『日本改造法案大綱』が、そのどこが、磯部たち青年将校を、それほど魅了し、彼らに決起を決意させたのだろうか。
第三十八回 -皇道派と統制派の争い-
このような右翼社会主義思想は、特に若い軍人たちに浸透した。彼らがこの思想に飛びついたのは、日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。青年将校たちは、毎日のように農家出身の兵士たちと接している。東北の農村などで、一家を救うために娘が身売りしているというような話を聞いて彼らが感じたのは、日本の体制に対する義憤であった。
こうした〝義憤〟に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない――こうした不満が「天皇を戴く社会主義」と結びつくのは、ある意味で自然の成り行きであった。
そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り返していたから誤解されやすいけれども、それは革マル派と中核派が対立しているのと同じで、結局はこれも〝一つ穴の狢〟なのである。
彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義政策を実行することを目指していた。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。
皇道派は、2・26事件を起こしたことからも分かるように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた〝昭和維新〟とは、要は「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。
これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現することを目指した。それ以外は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。
この両者のうち、結局生き残ったのは統制派のほうであった。というのも、若手将校を中心とする皇道派が2・26事件を起こして自滅してしまったからである。
皇道派は2・26事件において、〝昭和維新〟を唱えてクーデターを起こそうとした。その目的は言うまでもなく、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義政権」を作ることであった。 ところが、これは完全な失敗に終わった。昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧され、首謀者たちも逮捕された。国民の多くも、反乱した青年将校のやり方を好まなかった。
しかし、これは対立する統制派にとってはチャンスであった。陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。すでに陸軍は彼らの思うがままに動くわけだし、政府も議会も2・26事件以来、テロを恐れて、まったく軍の意向に逆らえなくなった(といっても、実際には統制派はテロを嫌っていたし、その必要もなかった。統制派の意志は陸軍の意志となり、陸軍の意志は日本の意志であるかのごとき状態になったからである)。
さらに、このころには統帥権干犯問題によって首相も内閣もない明治憲法の欠陥が露呈していたので、「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。だから、一部の政治家が抵抗したところで、軍の意志を止めることは不可能な状況だったのである。
こうして「昭和の悲劇」が始まることになった。
こうした〝義憤〟に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない――こうした不満が「天皇を戴く社会主義」と結びつくのは、ある意味で自然の成り行きであった。
そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り返していたから誤解されやすいけれども、それは革マル派と中核派が対立しているのと同じで、結局はこれも〝一つ穴の狢〟なのである。
彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義政策を実行することを目指していた。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。
皇道派は、2・26事件を起こしたことからも分かるように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた〝昭和維新〟とは、要は「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。
これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現することを目指した。それ以外は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。
この両者のうち、結局生き残ったのは統制派のほうであった。というのも、若手将校を中心とする皇道派が2・26事件を起こして自滅してしまったからである。
皇道派は2・26事件において、〝昭和維新〟を唱えてクーデターを起こそうとした。その目的は言うまでもなく、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義政権」を作ることであった。 ところが、これは完全な失敗に終わった。昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧され、首謀者たちも逮捕された。国民の多くも、反乱した青年将校のやり方を好まなかった。
しかし、これは対立する統制派にとってはチャンスであった。陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。すでに陸軍は彼らの思うがままに動くわけだし、政府も議会も2・26事件以来、テロを恐れて、まったく軍の意向に逆らえなくなった(といっても、実際には統制派はテロを嫌っていたし、その必要もなかった。統制派の意志は陸軍の意志となり、陸軍の意志は日本の意志であるかのごとき状態になったからである)。
さらに、このころには統帥権干犯問題によって首相も内閣もない明治憲法の欠陥が露呈していたので、「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。だから、一部の政治家が抵抗したところで、軍の意志を止めることは不可能な状況だったのである。
こうして「昭和の悲劇」が始まることになった。
第三十七回 -天皇を戴く社会主義-
戦前の日本において、共産主義はほとんど影響力をもちえなかった。その最大の原因は、彼らの用語で言えば、「天皇制の廃止」、つまり皇室をなくすることを掲げたこと(ロシア革命でいえば、皇室に繋がる人たちを皆殺しにすること)にある。このスローガンが、共産主義に対する国民の恐怖感を生み、さらには治安維持法を生んだことは、すでに述べたとおりである。
さて、こうした左翼の共産主義者、社会主義者の代わりに日本で大きく力を持ったのは、右翼の社会主義者たちの存在である。彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
戦後の歴史教育では、彼らのことを国家主義者とか軍国主義者というような名前で呼んでいるが、それでは本質は分からない。彼らは、あくまで右翼の社会主義者なのである。
この右翼社会主義思想を唱えた人に北一輝がいるが、彼の主著は『国体論および純社会主義』というタイトルで、まさにこれは〝社会主義のすすめ〟である。実際、この本が出たとき、日本の左翼思想家たちは諸手を挙げて、その主張に賛成したほどである。
1931年、右翼が集結して「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体を作った。そのときに決議された綱領を見れば、「右翼社会主義」の思想がよく分かるであろう。
<一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。>
彼らが言う亡国政治とは、議会政治のことを指す。腐敗・堕落した議会は日本のためにならないから、廃止して、天皇自らが政治を執るようにすべきだというのである。「天皇親政」とは聞こえがいいが、結局は、天皇の権威を借りて独裁政治を実現すべきだということである。
<一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。>
「産業大権」というのは、軍事における天皇の統帥権と同じように、産業に対する統帥権を確立すべきだという意味である。つまり、資本主義に基づいた私的財産権を大幅に制限し、土地を含むすべての生産手段を国有にせよというのだ。これが社会主義的な発想であることは、今さら言うまでもない。
<一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。>
左翼も右翼も同じ社会主義であることは、ここで「階級対立」という概念が持ち出されていることでも分かる。資本主義と労働者の間にある貧富の差をなくすることは、右翼社会主義者にとっても重要な政策スローガンであったのだ。
さて、こうした左翼の共産主義者、社会主義者の代わりに日本で大きく力を持ったのは、右翼の社会主義者たちの存在である。彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
戦後の歴史教育では、彼らのことを国家主義者とか軍国主義者というような名前で呼んでいるが、それでは本質は分からない。彼らは、あくまで右翼の社会主義者なのである。
この右翼社会主義思想を唱えた人に北一輝がいるが、彼の主著は『国体論および純社会主義』というタイトルで、まさにこれは〝社会主義のすすめ〟である。実際、この本が出たとき、日本の左翼思想家たちは諸手を挙げて、その主張に賛成したほどである。
1931年、右翼が集結して「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体を作った。そのときに決議された綱領を見れば、「右翼社会主義」の思想がよく分かるであろう。
<一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。>
彼らが言う亡国政治とは、議会政治のことを指す。腐敗・堕落した議会は日本のためにならないから、廃止して、天皇自らが政治を執るようにすべきだというのである。「天皇親政」とは聞こえがいいが、結局は、天皇の権威を借りて独裁政治を実現すべきだということである。
<一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。>
「産業大権」というのは、軍事における天皇の統帥権と同じように、産業に対する統帥権を確立すべきだという意味である。つまり、資本主義に基づいた私的財産権を大幅に制限し、土地を含むすべての生産手段を国有にせよというのだ。これが社会主義的な発想であることは、今さら言うまでもない。
<一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。>
左翼も右翼も同じ社会主義であることは、ここで「階級対立」という概念が持ち出されていることでも分かる。資本主義と労働者の間にある貧富の差をなくすることは、右翼社会主義者にとっても重要な政策スローガンであったのだ。
第三十六回 -元老という存在-
明治憲法は、いわば突貫工事のようにして作られたわけだが、それでも昭和になって軍が統帥権のことを持ち出すまで問題が起きなかったのは、元老たちがいたからである。
元老というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、当初のメンバーは、伊藤博文、黒田清隆、山形有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であった(のちに西園寺公望、桂太郎が加わる)。彼らは文字どおり、命を賭けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信任も篤い。彼ら元老が健在であった間は、憲法の欠陥が表面化することはなかったのである。
たとえば、すでに述べたとおり、明治憲法においては首相の規定がない。だが、それにもかかわらず首相が政府の代表者となりえたのは、元老が次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたからである。当時の感覚からすれば、元老たちが推薦するということは、天皇の眼鏡にかなう自分であるということであった。そのくらい、天皇と元老との信頼関係は強かった。
つまり、元老が選んだということは天皇が選んだということに等しく、したがって、首相の決定に対して他の大臣や軍部が逆らうことは考えられなかった。それは天皇への反逆に等しいのである。だから「軍は政府の言うことを聞かなくてもいい」などと言うような人物なぞ、ありえなかったのである。
天皇と元老の信頼関係に基づく磐石の体制があったからこそ、伊藤博文は多少の傷は気にせず速成で憲法を作れた。しかし、その伊藤にしても、たった一つの誤算があった。それは「元老たちがこの世を去ればどうなるのか」ということを考慮に入れなかったらしいことである。
実際、昭和初年になって元老という重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が現われたと言っても過言ではない。かくして憲法の条文はひとり歩きをし始め、軍部の独走を許してしまう結果となってしまった。
軍部のクーデターが日本を揺るがした5・15事件(1932年)や、2・26事件(1936年)のとき、元老は公家あがりの西園寺公望ただひとりであった。すでに黒田は1900年、西郷は1902年、伊藤は1909年、桂は1913年、井上は1915年、大山は1916年、山形は1922年、松方は1924年に死亡している。
昭和になる前に、明治憲法の健全な担保ともなる元老は、すべて死亡していたのだ。2・26事件を見て、「山形老公が生きていたらこんなことはなかったろう」と嘆息を挙げた人がいたが、それは正しかったのである。
元老というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、当初のメンバーは、伊藤博文、黒田清隆、山形有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であった(のちに西園寺公望、桂太郎が加わる)。彼らは文字どおり、命を賭けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信任も篤い。彼ら元老が健在であった間は、憲法の欠陥が表面化することはなかったのである。
たとえば、すでに述べたとおり、明治憲法においては首相の規定がない。だが、それにもかかわらず首相が政府の代表者となりえたのは、元老が次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたからである。当時の感覚からすれば、元老たちが推薦するということは、天皇の眼鏡にかなう自分であるということであった。そのくらい、天皇と元老との信頼関係は強かった。
つまり、元老が選んだということは天皇が選んだということに等しく、したがって、首相の決定に対して他の大臣や軍部が逆らうことは考えられなかった。それは天皇への反逆に等しいのである。だから「軍は政府の言うことを聞かなくてもいい」などと言うような人物なぞ、ありえなかったのである。
天皇と元老の信頼関係に基づく磐石の体制があったからこそ、伊藤博文は多少の傷は気にせず速成で憲法を作れた。しかし、その伊藤にしても、たった一つの誤算があった。それは「元老たちがこの世を去ればどうなるのか」ということを考慮に入れなかったらしいことである。
実際、昭和初年になって元老という重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が現われたと言っても過言ではない。かくして憲法の条文はひとり歩きをし始め、軍部の独走を許してしまう結果となってしまった。
軍部のクーデターが日本を揺るがした5・15事件(1932年)や、2・26事件(1936年)のとき、元老は公家あがりの西園寺公望ただひとりであった。すでに黒田は1900年、西郷は1902年、伊藤は1909年、桂は1913年、井上は1915年、大山は1916年、山形は1922年、松方は1924年に死亡している。
昭和になる前に、明治憲法の健全な担保ともなる元老は、すべて死亡していたのだ。2・26事件を見て、「山形老公が生きていたらこんなことはなかったろう」と嘆息を挙げた人がいたが、それは正しかったのである。
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