2008年3月29日土曜日

第三十六回 -元老という存在-

明治憲法は、いわば突貫工事のようにして作られたわけだが、それでも昭和になって軍が統帥権のことを持ち出すまで問題が起きなかったのは、元老たちがいたからである。

元老というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、当初のメンバーは、伊藤博文、黒田清隆、山形有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であった(のちに西園寺公望、桂太郎が加わる)。彼らは文字どおり、命を賭けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信任も篤い。彼ら元老が健在であった間は、憲法の欠陥が表面化することはなかったのである。

たとえば、すでに述べたとおり、明治憲法においては首相の規定がない。だが、それにもかかわらず首相が政府の代表者となりえたのは、元老が次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたからである。当時の感覚からすれば、元老たちが推薦するということは、天皇の眼鏡にかなう自分であるということであった。そのくらい、天皇と元老との信頼関係は強かった

つまり、元老が選んだということは天皇が選んだということに等しく、したがって、首相の決定に対して他の大臣や軍部が逆らうことは考えられなかった。それは天皇への反逆に等しいのである。だから「軍は政府の言うことを聞かなくてもいい」などと言うような人物なぞ、ありえなかったのである。

天皇と元老の信頼関係に基づく磐石の体制があったからこそ、伊藤博文は多少の傷は気にせず速成で憲法を作れた。しかし、その伊藤にしても、たった一つの誤算があった。それは「元老たちがこの世を去ればどうなるのか」ということを考慮に入れなかったらしいことである。

実際、昭和初年になって元老という重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が現われたと言っても過言ではない。かくして憲法の条文はひとり歩きをし始め、軍部の独走を許してしまう結果となってしまった。

軍部のクーデターが日本を揺るがした5・15事件(1932年)や、2・26事件(1936年)のとき、元老は公家あがりの西園寺公望ただひとりであった。すでに黒田は1900年、西郷は1902年、伊藤は1909年、桂は1913年、井上は1915年、大山は1916年、山形は1922年、松方は1924年に死亡している。

昭和になる前に、明治憲法の健全な担保ともなる元老は、すべて死亡していたのだ。2・26事件を見て、「山形老公が生きていたらこんなことはなかったろう」と嘆息を挙げた人がいたが、それは正しかったのである。           

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