宣長に最も近く、目前にあったのは古学辞学の大家荻生徂徠の「道」の論だった。また「神道」であった。それは本質的に全く異なるカミと儒・仏とを重ね合わせて、理論的に道の体系を構築しようとする論議だった。徂徠のいう道とは先王の道、中国古代聖人の道で、それが政治の中心の問題とされ、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』などの中国の古典が重んじられていた。
宣長は徂徠の学を繰り返し学び、対比して、「日本語」として書かれた『古事記』を読んだ。結果として宣長は儒教に対して次のように考えた。
中国には古来、一系の帝王などいない。彼らは互いに皆、国の奪い合いをしている。国を奪ったものが帝王、奪われたものは賊である。威力があって知恵が深く、人をなつけ、人の国を奪い取ってしばらくの間、国をよく治めた人を聖人という。その聖人が組み立て、定めたところを「道」といっている。だから儒学で学ぶ「道」とは、人の国を奪うためのもの、人に国を奪われないようにする用意の二つを指す。それに対して日本の「道」はちがう。それは『古事記』にきちんと書いてある、と宣長は言う。
天地が成ると、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の御霊によって伊邪那伎(いざなき)、伊邪那美(いざなみ)の二神が生まれた。ついで天照大御神が生まれた。その日の神の高御座(たかみくら)に天皇命(すめらみこと)がお坐りになる。その一筋が連綿とつづく。それが日本の神の道である。
その道に人々が従って、下が下まで乱れることもなく、天下はおだやかに安らかに治まってきた。それが日本の在り方なのだ。中国では仁義礼譲孝悌忠信などとさまざまに作りたてて人々にきびしく教えようとする。これも世人をなつけるための計(たばかり)である。日本にはそのようなことごとしい教えは何もなかった。それにもかかわらず日本はよく治まってきた。それこそが日本なのだ。
今日から見ると簡単なもので、ここには抽象名詞を重ねた理論的構築はない。まことに素朴なものだ。しかしこれこそ日本人の生活意識に根ざす歴史観であり、素朴でありながら日本の政治史を貫いてきた事実であり、中国との相違はまさにそこにあると、宣長は中国文明の重圧に耐え、それをつき破った上で、これを確立したのだった。
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