2008年3月29日土曜日

第三十八回 -皇道派と統制派の争い-

このような右翼社会主義思想は、特に若い軍人たちに浸透した。彼らがこの思想に飛びついたのは、日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。青年将校たちは、毎日のように農家出身の兵士たちと接している。東北の農村などで、一家を救うために娘が身売りしているというような話を聞いて彼らが感じたのは、日本の体制に対する義憤であった。

こうした〝義憤〟に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない――こうした不満が「天皇を戴く社会主義」と結びつくのは、ある意味で自然の成り行きであった。

そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り返していたから誤解されやすいけれども、それは革マル派と中核派が対立しているのと同じで、結局はこれも〝一つ穴の狢〟なのである。

彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義政策を実行することを目指していた。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。

皇道派は、2・26事件を起こしたことからも分かるように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた〝昭和維新〟とは、要は「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。
これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現することを目指した。それ以外は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。 

この両者のうち、結局生き残ったのは統制派のほうであった。というのも、若手将校を中心とする皇道派が2・26事件を起こして自滅してしまったからである。

皇道派は2・26事件において、〝昭和維新〟を唱えてクーデターを起こそうとした。その目的は言うまでもなく、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義政権」を作ることであった。 ところが、これは完全な失敗に終わった。昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧され、首謀者たちも逮捕された。国民の多くも、反乱した青年将校のやり方を好まなかった。

しかし、これは対立する統制派にとってはチャンスであった。陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。すでに陸軍は彼らの思うがままに動くわけだし、政府も議会も2・26事件以来、テロを恐れて、まったく軍の意向に逆らえなくなった(といっても、実際には統制派はテロを嫌っていたし、その必要もなかった。統制派の意志は陸軍の意志となり、陸軍の意志は日本の意志であるかのごとき状態になったからである)。

さらに、このころには統帥権干犯問題によって首相も内閣もない明治憲法の欠陥が露呈していたので、「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。だから、一部の政治家が抵抗したところで、軍の意志を止めることは不可能な状況だったのである。

こうして「昭和の悲劇」が始まることになった。

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