ホトケが輸入されて、礼拝され、寺院が建造されて、その壮麗な姿が仰がれるようになった奈良時代には、「仏神」という言葉が使われていた。それは当時「ホトケという神」という認識があったことを示すもので、ホトケも神の一種と思われていたことが分かる。
何百というカミがいるのだから、ホトケというカミが一つ加わったとて何ということはなかった。ただホトケは立派な仏像であった。このホトケは人間の苦を救済するものであるという。法隆寺をはじめ多くの寺々が建てられ、天皇みずから仏教に帰依し、東大寺のような巨大な仏像を持つ仏閣が着々と造られた。
仏教の信仰は八世紀ごろには、徐々に社会の上層から下層へと及んでいった。その結果としてホトケとカミの融合が生じ、ホトケの持つ「救済」という観念がカミの意味を変え始めた。そうしたカミとホトケの融合を神仏習合といっている。
神仏の習合と見られる現象の最も古い例の一つは「神宮寺」の建立である。神社と寺院は本来異なる思想・観念によって建てられた建物であるのに、神社の中に寺を建てる。これを神宮寺という。
また別の例として、天皇の仏法帰依を挙げることもできる。天皇はカミの子孫である。それが仏弟子となっていることが奈良時代から平安時代以後にかけて甚だ多い。
元明・聖武・孝謙・平城・純和・仁明・清和・陽成・宇多・醍醐・朱雀・村上・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・土御門・後嵯峨・後深草・・・
この二七天皇の中で法名を受けた天皇は一七人に及んでいる。退位後出家して法皇となった天皇はこれ以後を含めて三五人見出される。これはわが国での流布が早くから深く広く進行したことを示す事実である。
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