2008年3月19日水曜日

第十七回 -日本のカミとは?-

①カミは唯一の存在ではなく、多数存在した。

日本のカミの特性の第一はカミが多数いるということである。
カミに対する古代日本人の観念は祝詞(のりと)によく表現されているから、最も古い延喜式祝詞を見ると、その祝詞を奏上して祈願する相手のカミは高天原の神だけではない。風の神・火の神、さらには竈の神・大殿の神・御門の神・道の神など、それぞれの場所にカミがましまして、それぞれの安穏を守護するとされている。

カミはもともと唯一最高の神として絶対のものだというのではなく、一つのカミが全体を統括してもいない。ギリシャ神話の神々、例えばデメーテルやアフロディテのような女神、あるいはゼウスのごとく、人間のように愛したり、策略を用いたりなどの行動を自由にする人格神となるのは、記紀の神話の部分に現われるカミの場合だけである。

日本のカミはいろいろな場所にいる。『古事記』の中には三百以上の神がいて、「水蒔きの神」のように、行為そのものまでも神として扱われている。



②カミは具体的な姿・形を持たなかった。

今日では、カミを祀る設備として神殿があり、鏡とか、玉とか剣とかを御神体とする神社はいくつもある。また「乃木神社」などのように人を祀った神社もある。

しかし古い時代には、一般的に社(やしろ)というものもなかった。奈良時代に近くなって、ようやく増え始めて、現在は日本中に神社がある。神社が造られ始めたのは、仏教に寺院があることが影響していると考えられる。
三輪山などは、現在もそこに御神体を納める建物はなく、山そのものが御神体とされている。那智の滝は滝そのものが御神体である。

祝詞を奏上してカミの来臨を仰ぎ、美味・珍味を豊富に供えて願い事を言上する。それが済めばカミは天へ帰還される。人はカミの姿を見ることはなかった。
だから、雄略天皇は葛城の一言主の大神の姿を見ても神と気づかず、お前は誰かと問い詰めてしまった。後に天皇はそのことをカミに向かって陳謝し、カミが「ウツシオミ(この世の人の姿)でおいでとは思いませんでした」と言っている。



③カミは漂動・彷徨し、時に来臨し、カミガカリした。

カミは姿かたちがなく、物や場所に固着・定住せず漂動し、招きに応じてそこに来臨し、また人間にとりつき、カミガカリして宣託するという根本的性格を持っていた。この性格があるからカミは後世、九州から関東にその分霊を祀ることもできたし、総本社の神霊を多くの支社に迎えることもできた。
降下して来たカミは祭礼に当たって「旅なる所」に出かけることもあった。「タビ」とは 「一時的な滞在」の意を表す言葉だった。

カミはカミガカリする。「カカル」とは、物に覆いかぶさるようにして、自分の重さを相手にくっつけて、ぶら下がること。「カミガカリ」は、彷徨・移動するカミが人間あるいは樹木・岩石・枝などにヨリツクのである。「託」「憑」という漢字は「ヨル」と訓み、「神がかりする」意に使うが、「ヨル」とは移動・流動するものが、何かの物、あるいは事に一時的にツクことである。



④カミはそれぞれの場所や物・事柄を領有し支配する主体であった。

古代のカミは山や坂や川の瀬などを領有・支配していた。それの場所を通過するにはカミに捧げ物をして、通行の許可を乞わねばならなかった。

具体的には見えないカミが、それぞれの場所を領有し、支配しているという観念があるから、そこを通行するときに手向けの幣(ぬさ)を捧げた。また、先に記したように風の神・火の神・竈の神などが、祝詞を奏上する対象となっているのも、それぞれを支配するカミがいると認められていたからである。

また、土地にはそれぞれの土地を領有するカミがいるので、土地を占有して建築物を建てるときには、現在でも地鎮祭をする。それは、物を供えて、その土地の領有者であるカミの許可を乞うことである。
地鎮祭の趣旨は、古代社会の人々が峠のカミに供え物をしたのと根本的には同じである。
日本国全体を念頭に置くときには、その生産の豊穣・社会の安寧を全体として支配するカミがあると考えられ、それに物を供える。



⑤カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。

カミは雷や猛獣のような超能力を持つ領有者・支配者である。カミはその意向を貫徹する力を持っている。カミは自由に漂動するだけでなく、人間に神がかりして託宣する。託宣において、カミは時には人間に対して要求をする。このカミの意向に背くとタタリが生じ、その超人的な力によって、たちまちその被支配者である人間に死が与えられる。

カミは人間に対して、恐ろしいタタリをすることがある。領有者・支配者なのだから、人間に要求を宣託したときに人間が応じないならばタタル。
「神のタタリ」とは、神の怒りが自然の作用として沸き立つことをいう。領有者・支配者の怒りが現出すると、被支配者は傷つき、死に至る。現在でも病人が続いて発生したり、凶事が重なったり、事故が続発したりすると、タタリではないかという。
それは「神の腹立ち」の結果かと思うわけで、オハライをする。「ハライ」とは、自分の犯した過ちや罪・ケガレを払い捨てる行為なのである。

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