中世の神道が、神の道を明らかにしようとしながら、結局、仏の枠組みの中へ神を押し込むことになっていたのに対し、近世になってカミをホトケから分離しようとする動きが現われてくる。
その初めは林羅山(1538~1657)である。羅山は17歳の頃、既に朱子の『四書集注』を読み、31歳で講説を開いたほど、儒学に通じ、殊に朱子学に詳しかった。しかし若年の頃から、清原家の神道説を聴聞したりしており、50歳の半ばを過ぎてから『本朝神社考』三巻を著わし、伊勢神宮以下、主たる神社の由来を記した。その序文に次のように述べている。
わが国は神国である。神武天皇以来、相次いで皇位について来たが、これはわが天の神が授けられた道である。しかし、それも中世には衰微し、仏法が漢土の道を日本に広め神道は廃れた。そこで伊奘諾(いざなき)・伊奘冊(いざなみ)は梵語であるとか、日神とは大日如来のことで、大日の本国だから日本国というとか、本地の仏がその跡を日本に垂れて神となって権現というとか、仏教による教説が広まった。わが国の貴族たちはそれを信じて事実を語らず、ついに神社と仏寺とを混同させるに至り、神官と僧侶が同じ所に住んでいる。ああ神があっても無きにひとしい。・・・願わくは世の人がわが神を崇めて仏を排すれば、国家は上古の淳直さを回復し、人民の生活は清浄さに至るだろう。
中国に広まった仏教は、現世を否定し、怪異の説を立てて人心を惑わし、寺を作り仏像を造るために財を浪費して、人民の生活を苦しめていると、既に中国の宋時代の儒学者によって排撃されていた。羅山の説はそれを受けて、仏教を攻撃した。
仏教を排撃した羅山は、宋代の儒学を身につけていた。羅山は中国の文明が卓越していることを認め、実のところ日本がその文明国に包含され、文明に至ることの可能な国であることを立証することを考えていた(日本橋から品川に引越した荻生徂徠(1666~1728)が、中国に一里近くなったと喜んだという話が想起される)。
羅山は、中国の古代の泰伯が日本に渡来し、皇祖となったという説を信じ、三種の神器も泰伯の持参したものだと論じた。これはまさしく、思考の中軸が仏教のインドから儒教の中国へと移行したにすぎないものと言える。
カミとホトケの分離を目指した儒学者たちは、ホトケの教説の代わりに儒学の教説に頼った。だから、カミを説くその教説は根源的に無理があり、全く説得力を持っていない。奈良時代以来、それぞれの時代の英才は漢文を読んで、インドの仏教思想、中国の史実や哲学を学び、理解することに心魂を傾けた。その結果、カミを独立させようとしながら、結局本質的に相違するホトケと儒学の枠との中に戻ってしまったのである。
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