2008年3月19日水曜日

第二十六回 -五人の国学者 本居宣長編①-

儒教・仏教以前の日本を日本語によって明らかにしたいという国学は、契沖によって方法を確立し、真淵によって研究対象を明確に限定した。それらの成果をうけて、『古事記』の解読というかたちで国学を全面的に構築したのが本居宣長である

1763年の夏の頃、30歳半ばの宣長は松坂の旅館新上屋で生涯に一度だけ真淵と会った。
宣長は既に『万葉集』の勉強をしていたけれども、その頃の宣長の主たる志向は新古今風の和歌と『源氏物語』とにあった。そして、宣長はすでに和歌の論『排蘆小船(あしわけおぶね)』を書き、『源氏物語』の研究書である『柴文要領』を仕上げていた。

しかし、真淵は宣長に対して、古事を知り古心を学ぶには『古事記』の解読が大事であると力説したと思われる。宣長はその会見の後、『古事記』の研究にひた走りに向かった。

宣長は入門を許されると、しきりに真淵に向かって『万葉集』の難語、難訓について質問状を送っている。その往復書簡は本居宣長記念館に大量に保存されており、宣長は『万葉集』のむつかしい箇所をすべて質問したことが分かる。宣長の古語研究の周密さは、その往復書簡によって十分に知られる。

宣長が『古事記』の訓読に志したときに、彼は単に訓読文を作ろうとしたのではなかった。宣長は『古事記』の解読という古代日本語の再構成を通して、当時の全世界、つまり中国・インドに対立する「日本の独自性」とは何かを発見しようとした。

宣長は「神」という言葉についても精密な考察をほどこした。当時、宣長を取り囲んでいる学問といえば、儒教であり、仏教であり、いわゆる神道だった。日本人がはじめて出会った文字が漢字だったのだから日本人が学ぶものは漢文であり、内容は儒仏関係のもの、また中国の歴史と文学、哲学で、医学もまたすべて漢字によって書かれていた。しかして宣長はのしかかってくるこの中国の漢字・漢文の重圧を突き破って「日本の立脚地」を「日本語」によって確立しようとした。

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