「天皇陛下は15名の無双の忠義者を殺されたのであらふか
そして陛下の周囲には国民が最もきらつてゐる国奸等を近づけて
彼らの云ひなり放題に御まかせになつているのだらふか
陛下吾々同志程国を思ひ
陛下の事をおもふ者は日本中どこをさがしても決しておりません
その忠義者をなぜいぢめるのでありますか (中略)
陛下の赤子を殺すのでありますぞ
殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります
陛下の御耳に達しない筈はありません (中略)
何と云ふ御失政でありませう」
磯部浅一の「獄中日記」の一節である。
処刑された2・26事件の青年将校たちの中で、天皇に対する怒りをぶちまけているのは、磯部ただ一人だ。処刑されたとき磯辺は32歳。彼は、2・26事件の青年将校の中のリーダー格で、最も過激に、純粋に「天皇のための革命=昭和維新」に、いわば突進して行った人物であり、だからこそ、彼を裏切ったといえる天皇に憤ったのである。
磯辺は、たとえば、1933年の夏、2・26事件のリーダーとなる同志たち、村中孝次、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀が集まったとき、
「もう待ちきれん、われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだみんなそう思わんか」
と地団太を踏むように吐き捨てている(大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』)。
山崎國紀(『磯部浅一と二・二六事件』)によれば、「破壊だ、破壊だ、徹底的にたたき割るんだ」というのが、磯部の口癖となっていたようだ。
「起ち上がる」、あるいは「破壊」とは、もちろん天皇を国民から疎隔し、「私心我欲を恣(ほしいまま)」にしている「元老、重臣」たちをたたき殺すこと、つまり昭和維新を敢行することだった。
それでは、なぜ、磯辺は、そして彼の同志たちは、それほどまでに「昭和維新」を思い詰めたのか。
松本清張は、彼らの「理論の拠りどころとなったのは北一輝の『日本改造法案大綱』である」(『昭和史発掘6』)と書き、佐々木二郎は、「とくに磯辺は(『日本改造法案大綱』の)無二の信奉者だった」と指摘している。
また山崎國紀も、「磯部らの、革命プランの『聖書』となったのが、北一輝の『日本改造法案大綱』であった」と書いているし、磯辺は2・26事件で逮捕され、死を目前にした獄中でも、『日本改造法案大綱』の書写をしている。
それでは、『日本改造法案大綱』が、そのどこが、磯部たち青年将校を、それほど魅了し、彼らに決起を決意させたのだろうか。
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