欽明13年(552年)、百済の聖明王が、日本に仏像と経典を送ってきた。このとき、欽明天皇は宮廷の有力者をあつめて仏教受容の可否をはかった。
欽明天皇は、そのとき仏教を日本にとり入れたいと考えていた。そして、蘇我稲目も仏像をまつるべきだといった。しかし物部尾輿は、異国の神を拝んではならないと主張した。そこで、大王は朝廷が仏教をうけ入れることは先送りにするといい、蘇我稲目だけに仏をまつらせた。
欽明天皇の子供の時代になると、宮廷に大陸のすすんだ文化の一つとしての仏教をうけ入れるべきだとする気運が高まった。そのため、欽明天皇の王女で日本最初の女帝となった推古天皇は、聖徳太子にはかったうえで仏教興隆の詔を出した。
七世紀なかばになると、大王を宮廷のまとめ役ではなく中国の皇帝にならった専制的な支配者にしようとする動きが起こってきた。蘇我入鹿を討って大化の改新を行った中大兄皇子(天智天皇)がこの動きを主導した。
天智天皇は、王位を自分の子の大友皇子につたえたいと考えた。多くの豪族がこれに反発し、かれらは天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)についた。これによって、大友皇子と大海人皇子のあいだで皇位争いが行われることになった。
これが古代最大の争乱である壬申の乱である。
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