2008年3月19日水曜日

第二十九回 -五人の国学者 平田篤胤編②-

宣長が世を去ったのは1801年だったが、そのころから徳川幕府の根幹をゆるがすような事件が相次いで起きた。一つは天災・飢饉による米価騰貴、米買占めに対する暴動の頻発である。

百姓の一揆はすでに1700年代にも多くあったが、この時期の騒動は都市の米商・酒商などの流通機構、あるいは質屋などを襲撃するもので「うちこわし」といわれ、山形・但馬・信濃・越前・三河・摂津・佐渡・肥後・出羽などおよそ日本全国に生じて、大きな社会不安を醸成した。

その頃、平田派の国学はすでに、全国に広まっていた。篤胤は1834年に亡くなって、その後を養子銕胤(かねたね)がついだ。そのとき、平田派の門人は全国で3600人に達していた。銕胤の説法は強引で不透明、議論は粗雑と見られる点がある。

しかし、背後に本居宣長の堅実な学問が控えており、その後ろ盾を得ることによって尊王論は実社会に対して深く浸透していった。尊王論は、幕府を倒そうとする人々、幕府を補強しようとする人々、全然新たな道を探ろうとする人々など、各派のそれぞれの主張の一つの柱となり、錯雑した幕末の力の渦の一つの中心となった。

「うちこわし」から進んできた「世直し」運動のなかで幕府の統治が崩壊して、ついに大政奉還が実現し、新政府が樹立されたとき、平田派の国学を学んだ人々が新政府の教学の部門に多く入り込んでいった。政府が新しい政策を画定しようとするとき、その人々が力を発揮した。

「御一新とは神武の親政に復帰することである。それならば第一に神と仏との分離を明確にすることだ」という方針が行政の実務へとおろされ、神仏分離令、廃仏毀釈という行動がここから始まっていった。

0 件のコメント: