まず契沖が研究の方法を確定した。用例をあまねく集め、帰納的に言葉の意味を決定していく。
契沖は、奈良時代から平安初期までに個々の日本語が万葉仮名でどう表記されたかをひとつひとつ調べ、そこに見出された一貫する原則を法則化して、一語一語についてどんな仮名を使って表記すべきかを示した。このような契沖の方法は、のちに国学の基本的準則となった。
次に荷田春満が研究の体制を作ろうと努力した。彼は「創学校啓」という文章を将軍徳川吉宗に捧呈した。外来の儒教でもなく、仏教でもない古学(言いかえれば国学)の学校、つまり「日本の古典の研究所」をつくるために、地所を頂きたいという申し立てがその内容であった。
春満は伏見稲荷神社の御殿預であった羽倉信詮の二男であった。春満が成人したころ、長い戦乱によって宮廷は窮乏し、各神社に対する国からの奉幣が途絶えたところが多く、神社は困窮に追い込まれていた。神官の家筋の春満は「古学」を復興するため、研究の体制作りに翻意した。
国学研究の対象を明瞭に確定し、その研究を遂行するための準備に一生を使ったのが、賀茂真淵である。真淵もまた神官の一族である。
真淵は、儒学に卓越していた荻生徂徠の古文辞学派から、古語を知り、古義を体得し古心を知るという研究の順序を学び、それに従って古代研究を進めるべきだと考え、『古事記』の読解を目標として定めた。当時は『古事記』の全文を和語で訓み下す研究は、まだ世の中に存在しなかった。彼は『古事記』訓読のために、その手順として奈良時代の古語を明らかにすべく、豊富な古語を含む『万葉集』の訓釈に力を注いだ。
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