2008年3月4日火曜日

第二回 -大和朝廷の「中央集権化」-

四、五世紀にあっては、大王は各地の地方豪族がまつる神々とさしてかわらない「大和の国魂」の祭司にすぎなかった。かれは、各々の領域を宗教的に支配する豪族の連合政権の指導者であった。

大和朝廷の成立のときに、大王などの有力な首長は、なくなったのちに力のある神になるとする信仰がつくられた。それを、首長霊信仰という。
この考えにもとづいて、神となった首長をまつる古墳がつくられている。

古墳の広まりは大和朝廷の勢力圏の拡大に対応すると考えられ、古墳の分布から、五世紀末に大和朝廷は、東北地方南部から九州地方中部にいたる範囲のおもだった地方豪族をその指導下にくみ込んだと思われる。

六世紀はじめに継体天皇(この時代に「天皇」の称号は使われていないが、のちの人が「継体天皇」とよんだ人物という意味でこの語を使う)が立った。そのころから、王家は地方豪族の勢力を押さえて自分たちを日本全体を支配する権利をもつ唯一の集団として位置づけるようにともくろみはじめた。

そのためには、朝廷が地方豪族にたいして政治的・軍事的に絶対的優位にたつ必要がある。そして、そのうえで地方豪族がまつる神を王家の神の下におかねばならない。

まず、王家の守り神が、「大和の国魂」から王家の祖先神で太陽の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)にかえられた。そして、天照大神に仕える神々を天神(あまつかみ)とし、あちこちの土地をまもる農耕神が国神(くにつかみ)とされた。

この時点で、三和山の神は大物主神(おおものぬしのかみ)という国神で、その別名を大国主命と唱えられるようになった。そして、地方豪族がまつる農耕神は、すべて大国主命が形をかえてあらわれたものだといわれた。

天神は国神より上位におかれた。そして、中央の豪族は王家から分かれたものや天神の子孫から成るとされた。蘇我氏や春日氏は、古い時代に王家の分家になったといい、大伴氏や中臣(藤原)氏は天照大神に仕えた神の子孫だと唱えた。

そして、地方豪族の多くが国神の子孫だとされた。これによって、大王を頂点にして王家のつながりの親疎にもとづく豪族の序列がつくられることになった。

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