2008年3月29日土曜日
第四十一回 -2・26事件の失敗が意味するもの-
一番の失敗は、明治維新のときに、維新派が、まず天皇を手中にしたように、宮中を占拠して天皇を掌握しなかったことだ。天皇を掌握し、青年将校たちの意思を天皇自みずから天皇の言葉でいわせたならば、軍幹部も、重臣も政治家たちも、青年将校たちのいうままに動いたことだろう。だが、青年将校たちは、そんなことは夢にも考えていなかった。何よりも、クーデターを起こした後のプログラムすら全く作っていなかった。
天皇は、君側の奸たち、そして国をねじ曲げている政、財の巨悪を取り除くという青年将校たちの必死の思い、行動を誰よりも理解されている。行動さえ起こせば、そして軍の幹部が説明すれば、天皇はただちに的確な聖断――青年将校たちが想定しているような判断を下し、真崎を中心に、新しい軍事政権が作られるもの、いってみればクーデターの決起将校たちは自分たちの夢想がそのまま実現すると信じ込んでいたのだ。
だが、天皇は、いきなり「昭和維新」の決起は叛乱だと決めつけた。
この点については御廚貴に問うた。
「彼らは、天皇の聖断を得て、軍人内閣をつくる、というシナリオは書いていた。ところが、彼らが宮中に乗り込ませた軍人たちは、決定的に天皇の信頼を失っていて、天皇に対してもの申すことが全く出来なかったわけですが、青年将校たちは、そんな状態だとはまるで知らなかった。根本的誤算です」
また秦郁彦は、「天皇は合理主義者で、皇道派が唱える精神主義をとことん嫌っていた。ようするに美濃部達吉の〝天皇機関説〟を支持し、天皇親政などあり得ないと考えていた」のだと説明した。
2・26クーデターを敢行する必然性は、当時の政治、経済、社会情勢を点検する限りでは皆無といってよく、つまりは若い将校たちが北一輝などに洗脳された思い込みゆえの暴走なのだといえるが、この事件のもたらした影響は、きわめて大きかった。
軍部の発言権が強まり、露骨に介入するようになったのである。なぜなら、2・26事件が、天皇や西園寺が頼みとする人物を一掃してしまったからである。不幸にも決起青年将校たちの狙い通りになってしまったのである。
第四十一回 -青年将校たちの夢「天皇親政」-
「それは、やはり内政的には弱者の味方で金持ち、権力者などを抑えつける、いわゆる弱者の正義の鼓吹と、弱者、貧乏国は大国と戦い、広い領土を獲ってもいいぞ、という、軍人にとってのロマン・・・、もちろん誤りなんですがね」
秦は苦笑していい、「それと、日本改造のため、諸悪の根元である君側の奸を討つクーデターを行う。それを行うのは軍人だというのだから、若い憂国の将校たちは感激し、意気に感じるわけです」と指摘した。秦は「2・26の将校たちがほとんど『改造法案』のポケット判を背嚢に忍ばせていた」(『軍ファシズム運動史』)と書いている。
御廚貴(政策研究大学院大学教授)にも問うた。
「やはり、貧富の差をなくすという、共産主義にも似たラジカルな主張でしょう。自由主義経済がもたらしたのは貧富の差の拡大と、汚職、腐敗の蔓延だけで、これはダメだと。そして国家社会主義にすると。これは純朴な青年将校には、実にわかりやすいと思いますよ」
ともあれ、北の『日本改造法案大綱』は青年将校を魅了した。 青年将校たちは、「政治に一切関わらず」の一線を越えると同時に「テロも当然」、つまり、「政治体制を変えるという正しいことをやるのだから、何をよってもよい」という方向へ走っていった。
それでは彼らの「正しい政治体制」とは何なのか。
青年将校たちは、政党政治が天皇の意思をねじ曲げて、国を曲げていると思い込んだ。これには北一輝の日本改造法案などが強く影響しているのだが、ともかく彼らは、ならば天皇親政、つまり「天皇と軍、つまり自分たちとが直接結びつく政治にすべきだ」と考えた。
青年将校たちはそれが天皇のためだと信じ、それ以上のことは思いもしなかったにちがいないが、これは軍が、天皇の名のもとに、何事でも、意のままに出来る体制でもある。
だからこそ、軍幹部(とくに皇道派)たちは、青年将校たちのクーデター計画に反対ではなく、それをいかに利用しようかと考えていたのだ。
第四十回 -北一輝の右翼社会主義思想-
北は、まず天皇を「国民の総代表」と規定した。天皇を神格化していないのがおもしろい。そして「国民と共に国家改造の根基を定め」るために、天皇大権を発動して、三年間憲法を停止し、両院を解散し、戒厳令を布く、と定めた。その間に国家改造内閣をつくるのだが、その前に、宮中の一新を図り、華族制度を廃止し、貴族院もやめて審議院を置く。
国民の私有財産限定を100万円とし、それ以上は無償で国家に納付する。私有地の限度は時価10万円とし、それ以上は国家に納付させる。納付された土地は、土地を持たぬ農業者に分割し、年賦で購入させる。都市の土地は全て市有とした。
また、私企業の限度は資本金1000万円以内とし、それ以上の企業は全て国営化するとも定めた。そして資本家、経営者たちが私腹を肥やせなくなった金は、国民の生活保障に使われるとなっていた。これでは事実上、自由主義経済の否定だ。北は、自由競争は、貧富の差を拡大する悪しき制度だと否定した。この点は左翼と同じである。
富裕層に厳しく、低所得層、つまり弱者の立場に立つ。これは『国体論』以来の北の持論であり、何よりも共産主義を意識して強調したのだった。
北は、天皇の財産も国家に下附する、と定めた。
「天皇は自ら範を示して皇室所有の土地山林株券などを国家に下附し、皇室費を年間約3000万円とす」というのである。
もう一つ、北の『改造法案』が力説しているのは、「国家は国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す」という一条であった。
要するに、貧乏国日本が、極東シベリアやオーストラリアなどを領有している大国と戦争をするのは当然の権利だと宣言しているのである。内政面では私有財産の制限など、弱者の立場に立って富裕層を縛り、対外政策では、それと同じ論理で侵略戦争を是認したわけだ。
第三十九回 -2・26事件について-
そして陛下の周囲には国民が最もきらつてゐる国奸等を近づけて
彼らの云ひなり放題に御まかせになつているのだらふか
陛下吾々同志程国を思ひ
陛下の事をおもふ者は日本中どこをさがしても決しておりません
その忠義者をなぜいぢめるのでありますか (中略)
陛下の赤子を殺すのでありますぞ
殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります
陛下の御耳に達しない筈はありません (中略)
何と云ふ御失政でありませう」
磯部浅一の「獄中日記」の一節である。
処刑された2・26事件の青年将校たちの中で、天皇に対する怒りをぶちまけているのは、磯部ただ一人だ。処刑されたとき磯辺は32歳。彼は、2・26事件の青年将校の中のリーダー格で、最も過激に、純粋に「天皇のための革命=昭和維新」に、いわば突進して行った人物であり、だからこそ、彼を裏切ったといえる天皇に憤ったのである。
磯辺は、たとえば、1933年の夏、2・26事件のリーダーとなる同志たち、村中孝次、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀が集まったとき、
「もう待ちきれん、われわれはいつまで待つんですか。
躊躇すべきときではないと思います。
思い切って起ち上がれば暗い日本が一ぺんに明るくなるぞ、
どうだみんなそう思わんか」
と地団太を踏むように吐き捨てている(大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』)。
山崎國紀(『磯部浅一と二・二六事件』)によれば、「破壊だ、破壊だ、徹底的にたたき割るんだ」というのが、磯部の口癖となっていたようだ。
「起ち上がる」、あるいは「破壊」とは、もちろん天皇を国民から疎隔し、「私心我欲を恣(ほしいまま)」にしている「元老、重臣」たちをたたき殺すこと、つまり昭和維新を敢行することだった。
それでは、なぜ、磯辺は、そして彼の同志たちは、それほどまでに「昭和維新」を思い詰めたのか。
松本清張は、彼らの「理論の拠りどころとなったのは北一輝の『日本改造法案大綱』である」(『昭和史発掘6』)と書き、佐々木二郎は、「とくに磯辺は(『日本改造法案大綱』の)無二の信奉者だった」と指摘している。
また山崎國紀も、「磯部らの、革命プランの『聖書』となったのが、北一輝の『日本改造法案大綱』であった」と書いているし、磯辺は2・26事件で逮捕され、死を目前にした獄中でも、『日本改造法案大綱』の書写をしている。
それでは、『日本改造法案大綱』が、そのどこが、磯部たち青年将校を、それほど魅了し、彼らに決起を決意させたのだろうか。
第三十八回 -皇道派と統制派の争い-
こうした〝義憤〟に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない――こうした不満が「天皇を戴く社会主義」と結びつくのは、ある意味で自然の成り行きであった。
そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り返していたから誤解されやすいけれども、それは革マル派と中核派が対立しているのと同じで、結局はこれも〝一つ穴の狢〟なのである。
彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義政策を実行することを目指していた。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。
皇道派は、2・26事件を起こしたことからも分かるように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた〝昭和維新〟とは、要は「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。
これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現することを目指した。それ以外は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。
この両者のうち、結局生き残ったのは統制派のほうであった。というのも、若手将校を中心とする皇道派が2・26事件を起こして自滅してしまったからである。
皇道派は2・26事件において、〝昭和維新〟を唱えてクーデターを起こそうとした。その目的は言うまでもなく、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義政権」を作ることであった。 ところが、これは完全な失敗に終わった。昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧され、首謀者たちも逮捕された。国民の多くも、反乱した青年将校のやり方を好まなかった。
しかし、これは対立する統制派にとってはチャンスであった。陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。すでに陸軍は彼らの思うがままに動くわけだし、政府も議会も2・26事件以来、テロを恐れて、まったく軍の意向に逆らえなくなった(といっても、実際には統制派はテロを嫌っていたし、その必要もなかった。統制派の意志は陸軍の意志となり、陸軍の意志は日本の意志であるかのごとき状態になったからである)。
さらに、このころには統帥権干犯問題によって首相も内閣もない明治憲法の欠陥が露呈していたので、「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。だから、一部の政治家が抵抗したところで、軍の意志を止めることは不可能な状況だったのである。
こうして「昭和の悲劇」が始まることになった。
第三十七回 -天皇を戴く社会主義-
さて、こうした左翼の共産主義者、社会主義者の代わりに日本で大きく力を持ったのは、右翼の社会主義者たちの存在である。彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
戦後の歴史教育では、彼らのことを国家主義者とか軍国主義者というような名前で呼んでいるが、それでは本質は分からない。彼らは、あくまで右翼の社会主義者なのである。
この右翼社会主義思想を唱えた人に北一輝がいるが、彼の主著は『国体論および純社会主義』というタイトルで、まさにこれは〝社会主義のすすめ〟である。実際、この本が出たとき、日本の左翼思想家たちは諸手を挙げて、その主張に賛成したほどである。
1931年、右翼が集結して「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体を作った。そのときに決議された綱領を見れば、「右翼社会主義」の思想がよく分かるであろう。
<一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。>
彼らが言う亡国政治とは、議会政治のことを指す。腐敗・堕落した議会は日本のためにならないから、廃止して、天皇自らが政治を執るようにすべきだというのである。「天皇親政」とは聞こえがいいが、結局は、天皇の権威を借りて独裁政治を実現すべきだということである。
<一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。>
「産業大権」というのは、軍事における天皇の統帥権と同じように、産業に対する統帥権を確立すべきだという意味である。つまり、資本主義に基づいた私的財産権を大幅に制限し、土地を含むすべての生産手段を国有にせよというのだ。これが社会主義的な発想であることは、今さら言うまでもない。
<一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。>
左翼も右翼も同じ社会主義であることは、ここで「階級対立」という概念が持ち出されていることでも分かる。資本主義と労働者の間にある貧富の差をなくすることは、右翼社会主義者にとっても重要な政策スローガンであったのだ。
第三十六回 -元老という存在-
元老というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、当初のメンバーは、伊藤博文、黒田清隆、山形有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であった(のちに西園寺公望、桂太郎が加わる)。彼らは文字どおり、命を賭けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信任も篤い。彼ら元老が健在であった間は、憲法の欠陥が表面化することはなかったのである。
たとえば、すでに述べたとおり、明治憲法においては首相の規定がない。だが、それにもかかわらず首相が政府の代表者となりえたのは、元老が次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたからである。当時の感覚からすれば、元老たちが推薦するということは、天皇の眼鏡にかなう自分であるということであった。そのくらい、天皇と元老との信頼関係は強かった。
つまり、元老が選んだということは天皇が選んだということに等しく、したがって、首相の決定に対して他の大臣や軍部が逆らうことは考えられなかった。それは天皇への反逆に等しいのである。だから「軍は政府の言うことを聞かなくてもいい」などと言うような人物なぞ、ありえなかったのである。
天皇と元老の信頼関係に基づく磐石の体制があったからこそ、伊藤博文は多少の傷は気にせず速成で憲法を作れた。しかし、その伊藤にしても、たった一つの誤算があった。それは「元老たちがこの世を去ればどうなるのか」ということを考慮に入れなかったらしいことである。
実際、昭和初年になって元老という重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が現われたと言っても過言ではない。かくして憲法の条文はひとり歩きをし始め、軍部の独走を許してしまう結果となってしまった。
軍部のクーデターが日本を揺るがした5・15事件(1932年)や、2・26事件(1936年)のとき、元老は公家あがりの西園寺公望ただひとりであった。すでに黒田は1900年、西郷は1902年、伊藤は1909年、桂は1913年、井上は1915年、大山は1916年、山形は1922年、松方は1924年に死亡している。
昭和になる前に、明治憲法の健全な担保ともなる元老は、すべて死亡していたのだ。2・26事件を見て、「山形老公が生きていたらこんなことはなかったろう」と嘆息を挙げた人がいたが、それは正しかったのである。
第三十五回 -統帥権干犯問題-
憲法に首相も内閣もなく、したがって条文上、軍のことに政府が口出しできないと分かったとき、〝昭和の悲劇〟は始まった。これ以来、日本政府は軍部の意向に逆らうことはできなくなった。その結果、中国大陸での戦争は止めどなく拡大し、挙句の果てには日米開戦に突入することになったのである。
今日のわれわれからしてみると、内閣も首相も規定しないような明治憲法は「欠陥憲法」という外はない。もし明治憲法制定にあたって、たとえ責任内閣制度でないにしても、首相について明確に規定しておれば、もう少し軍部の暴走に抵抗できたのではないかという思いは尽きない。
2008年3月28日金曜日
第三十四回 -大日本帝国憲法-
この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアではじめて近代憲法を有する立憲君主国家となった。
憲法の第1章は天皇について定められている。
大日本帝国憲法
第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ
これらのうちで、特に重要なのは、
まず、第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
大日本帝国を統治するのは「万世一系」の天皇である、と日本が君主国家であることが宣言されている。
次に、第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
「万世一系」の由縁でもあるが、皇位継承が男系の世襲によることが定められている。
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
天皇は「神聖なお方」であり、決して侵してはならない、何ものも天皇に逆らってはならない、ということである。
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
天皇は陸海軍を統帥する。これがのちに「統帥権干犯問題」を引き起こすことになる条文である。この「統帥権干犯問題」について次回以降で述べよう。
2008年3月20日木曜日
第三十三回 -廃仏毀釈③-
室町末期に伝来したキリスト教は、多くの信徒を獲得し、北九州を中心として東に勢力を伸ばしていた。ところがキリシタンは日本の国土を侵略しようという意図を持っていると見られて、キリスト教に対しては禁止から弾圧へと対応が次第にきびしくなった。
キリスト教のかかわる島原の乱が起き、原城で二万七七〇〇人あまりが皆殺しになって鎮圧された後は、隠れキリシタンを摘発することが一つの政策となった。
徳川幕府は「宗門改め役」を常置して、個々人がキリシタンでないことを明らかにするために、国民に仏葬を強制し、庶民の戸籍は寺院に管理させて、毎年家ごとに進行する宗旨、宗派を取り調べ、その人が帰属する寺をきめて、そこから証明書を領主に提出させた。個々人が帰属する寺を「檀那寺」(菩提寺とも)いい、檀那寺は寺請状という証明書を発行する役目を負った。
このようにして、室町時代末期以来、各地で寺院が急速に増加し、檀家の葬儀を執行して、人々に安心を与えるという仕組みが普及した。しかし、様々な海外からの圧力と、国内の動揺との絡み合いのなかで、「神武の御親政にかえる」という明治維新が断行され、神仏の分離が発令された。
政府の意図は、神社に入っている仏教の要素を分別し、カミを祀る在り方を仏教渡来以前の姿に戻すところにあった。しかし、神仏分離の太政官令は、民衆によって廃仏毀釈と受け取られ、寺、仏像、経文、その他の破壊が行われ、仏教はそれまで持っていた社会的な力を失った。
第三十二回 -廃仏毀釈②-
三月二十八日の布告により、仏像をもって神体としている神社は神体を改め、かつ鰐口(神殿の軒先につるす中空・円形の下方が横長にさけている銅製の道具。垂らした太い緒をもって鳴らす)や梵鐘などの仏具を撤去すべきこと。この布告は、同三十日に大津裁判所から日吉権現の社司に通達された。翌四月一日に日吉権現の社司は延暦寺の事務係に通知して、権現の本殿の鍵を引きつぎたいと申し入れた。寺院の側ではこれについて討議したが議論沸騰、決着できなかった。社司は再三催促し、お互いに殺気を帯びるに至った。そこで社司の生源寺氏、樹下氏は兵士と共に、坂本の村民数十人を引率して日吉権現の本殿に乱入し、仏像仏器などはすべて焼き捨て、仏像などを収める厨子を投げ出し、多数の中にはそれらを槍の石突きなどで打ち砕き、火の中に投げ込むものもあった。
いま一つ深川富岡八幡別当の永代寺の例を見ると、
神仏分離の令下るや、元八幡宮の別当寺である永代寺の住職は還俗して、神官となり、寺の建物はことごとく毀され、仏像仏具は売却あるいは焼き捨てなどしたが、中の一坊、吉祥院だけは残し、神社と関係ないものとして墓地の管理者とした。八幡宮の御神体は永代寺の本尊阿弥陀如来だったが、その他、不動王、愛染明王の二つの像が本尊の外陣に安置されていた。不動王の像はその後散逸したが、阿弥陀如来と愛染明王の像は吉祥院に保存されている。
こうした動きは全国に及び、例えば奈良の興福寺の五重塔(現存)は二五円で売りに出された。買った人はそれをそのまま燃やして、金具だけを取ろうとしたのだが、近所から危険だという非難が出て、沙汰止みになったという。
先の富岡八幡の例でも分かるように、神社であるのに、その本尊は仏像であったものが当時は多かった。それは、仏が神の領域に入り込んだ神仏の習合であった。
第三十一回 -廃仏毀釈①-
神社と寺院、つまりカミとホトケとは、明確に区別すべきだということを、政策として明治政府が取り上げたのである。 事件は1968年3月17日から始まった。
五箇条の御誓文の公表の三日後である3月17日、神仏分離の太政官の達しが公表された。
その内容は以下のようなものである。
一、今回、王政復古――神武創業のはじめに還り、カミの子孫である天皇を原点として政治を行い、万事を一新する――ということだから、社僧などといって出家した僧侶の形で神社に勤めていたものは全部還俗して、神主・社人として、神道を以って勤めなさい。
一、仏像をもって御神体としている神社は、今後改めなさい。
一、全国に有名な石清水八幡大菩薩、宇佐八幡大菩薩、筥崎八幡大菩薩などと唱える称号は今後廃止し、八幡大神と改めなさい。
一、神仏の混淆は今後廃止しなさい。
2008年3月19日水曜日
第三十回 -王政復古-
徳川幕府成立よりも前、鎌倉幕府を超えて、平安時代の摂関体制を更にさかのぼり、「神武創業の始めに基づく」という。神武は初代の天皇で、はるかに日本神話の世界、神々の世界と直結している。神武は神々の血統を引く存在である。従ってその後裔はすべてカミの子孫であり、カミである。王政復古の重要な点は、国学の普及の結果そうしたカミを原点として政治を行うと宣言されたところにあった。
1869年3月14日には、五箇条の御誓文が発表される。
・「広く会議を興し万機公論に決すべし」
・「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」
・「官武一途庶民に至る迄各々其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」
・「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」
・「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」
五箇条の御誓文の内容は、ある意味で極めて近代的なものであり、わが国が近代的な国民国家として再出発することが、ここで宣言されている。
この五箇条が「御誓文」であるゆえんは、これらを「国是」として掲げた後に、明治天皇が「我が国、未曾有の変革を為さんと欲し、朕躬をもって衆に先んじ、天地神明に近い、大いに斯の国是を定め、万民保全の道を立てんとす。衆また此の趣旨に基づき協心努力せよ」と述べているからである。天皇自ら国民に先立ってこれらを実現していこうという意思表明である。
あここで重要なのは、五箇条の御誓文に示されるような近代国民国家としての理念が、天皇の天神地祇への宣誓という形式で表明されたことである。天皇が率先して、また天皇が率いる政府が率先して、国民国家の建設に着手すると表明したのである。
第二十九回 -五人の国学者 平田篤胤編②-
百姓の一揆はすでに1700年代にも多くあったが、この時期の騒動は都市の米商・酒商などの流通機構、あるいは質屋などを襲撃するもので「うちこわし」といわれ、山形・但馬・信濃・越前・三河・摂津・佐渡・肥後・出羽などおよそ日本全国に生じて、大きな社会不安を醸成した。
その頃、平田派の国学はすでに、全国に広まっていた。篤胤は1834年に亡くなって、その後を養子銕胤(かねたね)がついだ。そのとき、平田派の門人は全国で3600人に達していた。銕胤の説法は強引で不透明、議論は粗雑と見られる点がある。
しかし、背後に本居宣長の堅実な学問が控えており、その後ろ盾を得ることによって尊王論は実社会に対して深く浸透していった。尊王論は、幕府を倒そうとする人々、幕府を補強しようとする人々、全然新たな道を探ろうとする人々など、各派のそれぞれの主張の一つの柱となり、錯雑した幕末の力の渦の一つの中心となった。
「うちこわし」から進んできた「世直し」運動のなかで幕府の統治が崩壊して、ついに大政奉還が実現し、新政府が樹立されたとき、平田派の国学を学んだ人々が新政府の教学の部門に多く入り込んでいった。政府が新しい政策を画定しようとするとき、その人々が力を発揮した。
「御一新とは神武の親政に復帰することである。それならば第一に神と仏との分離を明確にすることだ」という方針が行政の実務へとおろされ、神仏分離令、廃仏毀釈という行動がここから始まっていった。
第二十八回 -五人の国学者 平田篤胤編①-
篤胤は『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『風土記』『新撰姓氏録』などを綜合した『古史成文』三巻を自分から編成して古代日本の姿として描き、その根拠を示す『古史徴』四巻、注釈としての『古史伝』二八巻を著わした。宣長が文献によって「事実がこうある」ことを明らかにしたのに対して、篤胤は「明らかになってきたことのままに将来もあるべきだ」と考え、生活や実際の政治の方向を、そこへ持って行こうとした。
篤胤は、日本の国内の文献を広く見るにとどまらず『易経』の研究をつんで、中国の儒教の本質に迫り孔子を批判し、仏教についてもみずから『印度蔵志』を著作して釈迦以下に論評を加えた。「神」についても『鬼神新論』を書いて中国やインドの神々にも、日本の古代の神に似たものがあることを指摘し、それを日本の優越性として説いた。
第二十七回 -五人の国学者 本居宣長編②-
宣長は徂徠の学を繰り返し学び、対比して、「日本語」として書かれた『古事記』を読んだ。結果として宣長は儒教に対して次のように考えた。
中国には古来、一系の帝王などいない。彼らは互いに皆、国の奪い合いをしている。国を奪ったものが帝王、奪われたものは賊である。威力があって知恵が深く、人をなつけ、人の国を奪い取ってしばらくの間、国をよく治めた人を聖人という。その聖人が組み立て、定めたところを「道」といっている。だから儒学で学ぶ「道」とは、人の国を奪うためのもの、人に国を奪われないようにする用意の二つを指す。それに対して日本の「道」はちがう。それは『古事記』にきちんと書いてある、と宣長は言う。
天地が成ると、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の御霊によって伊邪那伎(いざなき)、伊邪那美(いざなみ)の二神が生まれた。ついで天照大御神が生まれた。その日の神の高御座(たかみくら)に天皇命(すめらみこと)がお坐りになる。その一筋が連綿とつづく。それが日本の神の道である。
その道に人々が従って、下が下まで乱れることもなく、天下はおだやかに安らかに治まってきた。それが日本の在り方なのだ。中国では仁義礼譲孝悌忠信などとさまざまに作りたてて人々にきびしく教えようとする。これも世人をなつけるための計(たばかり)である。日本にはそのようなことごとしい教えは何もなかった。それにもかかわらず日本はよく治まってきた。それこそが日本なのだ。
今日から見ると簡単なもので、ここには抽象名詞を重ねた理論的構築はない。まことに素朴なものだ。しかしこれこそ日本人の生活意識に根ざす歴史観であり、素朴でありながら日本の政治史を貫いてきた事実であり、中国との相違はまさにそこにあると、宣長は中国文明の重圧に耐え、それをつき破った上で、これを確立したのだった。
第二十六回 -五人の国学者 本居宣長編①-
1763年の夏の頃、30歳半ばの宣長は松坂の旅館新上屋で生涯に一度だけ真淵と会った。
宣長は既に『万葉集』の勉強をしていたけれども、その頃の宣長の主たる志向は新古今風の和歌と『源氏物語』とにあった。そして、宣長はすでに和歌の論『排蘆小船(あしわけおぶね)』を書き、『源氏物語』の研究書である『柴文要領』を仕上げていた。
しかし、真淵は宣長に対して、古事を知り古心を学ぶには『古事記』の解読が大事であると力説したと思われる。宣長はその会見の後、『古事記』の研究にひた走りに向かった。
宣長は入門を許されると、しきりに真淵に向かって『万葉集』の難語、難訓について質問状を送っている。その往復書簡は本居宣長記念館に大量に保存されており、宣長は『万葉集』のむつかしい箇所をすべて質問したことが分かる。宣長の古語研究の周密さは、その往復書簡によって十分に知られる。
宣長が『古事記』の訓読に志したときに、彼は単に訓読文を作ろうとしたのではなかった。宣長は『古事記』の解読という古代日本語の再構成を通して、当時の全世界、つまり中国・インドに対立する「日本の独自性」とは何かを発見しようとした。
宣長は「神」という言葉についても精密な考察をほどこした。当時、宣長を取り囲んでいる学問といえば、儒教であり、仏教であり、いわゆる神道だった。日本人がはじめて出会った文字が漢字だったのだから日本人が学ぶものは漢文であり、内容は儒仏関係のもの、また中国の歴史と文学、哲学で、医学もまたすべて漢字によって書かれていた。しかして宣長はのしかかってくるこの中国の漢字・漢文の重圧を突き破って「日本の立脚地」を「日本語」によって確立しようとした。
第二十五回 -五人の国学者 契沖・荷田春満・賀茂真淵編-
契沖は、奈良時代から平安初期までに個々の日本語が万葉仮名でどう表記されたかをひとつひとつ調べ、そこに見出された一貫する原則を法則化して、一語一語についてどんな仮名を使って表記すべきかを示した。このような契沖の方法は、のちに国学の基本的準則となった。
次に荷田春満が研究の体制を作ろうと努力した。彼は「創学校啓」という文章を将軍徳川吉宗に捧呈した。外来の儒教でもなく、仏教でもない古学(言いかえれば国学)の学校、つまり「日本の古典の研究所」をつくるために、地所を頂きたいという申し立てがその内容であった。
春満は伏見稲荷神社の御殿預であった羽倉信詮の二男であった。春満が成人したころ、長い戦乱によって宮廷は窮乏し、各神社に対する国からの奉幣が途絶えたところが多く、神社は困窮に追い込まれていた。神官の家筋の春満は「古学」を復興するため、研究の体制作りに翻意した。
国学研究の対象を明瞭に確定し、その研究を遂行するための準備に一生を使ったのが、賀茂真淵である。真淵もまた神官の一族である。
真淵は、儒学に卓越していた荻生徂徠の古文辞学派から、古語を知り、古義を体得し古心を知るという研究の順序を学び、それに従って古代研究を進めるべきだと考え、『古事記』の読解を目標として定めた。当時は『古事記』の全文を和語で訓み下す研究は、まだ世の中に存在しなかった。彼は『古事記』訓読のために、その手順として奈良時代の古語を明らかにすべく、豊富な古語を含む『万葉集』の訓釈に力を注いだ。
第二十四回 -国学の日本研究-
その問いに対して、中国あるいはインドの学問に頼り、またその論の枠組みを借用して説明しようとするいわゆる神道家とは別に、日本自身の古代の文献を正確に日本語として理解することによって、その文献の語るところを、正確に認識し、それを日本と認めようとした。国学者といわれる人々はそれを内発的に自覚をもって行った。
このような、日本人が行った日本に関する研究が、幕府を倒し、日本の政治を変革するところへ強力に働いたことはそれまで例がなかった。また国学は、カミの意識を変革し、ホトケは本来輸入品であるという事実を明確にした。そして、文献以前、儒仏以前の日本こそ独自の日本であるという考えを導いた。その姿勢は重要である。
国学を代表する五人の研究者は、およそ30年の間隔で生まれた。
契沖 けいちゅう (僧侶) 1640~1701
荷田春満 かだのあずまろ (神職の家筋) 1669~1736
賀茂真淵 かものまぶち (神職の一族) 1697~1769
本居宣長 もとおりのりなが (医者・仏教徒) 1730~1801
平田篤胤 ひらたあつたね (武士) 1776~1834
第二十三回 -カミとホトケの分離-
その初めは林羅山(1538~1657)である。羅山は17歳の頃、既に朱子の『四書集注』を読み、31歳で講説を開いたほど、儒学に通じ、殊に朱子学に詳しかった。しかし若年の頃から、清原家の神道説を聴聞したりしており、50歳の半ばを過ぎてから『本朝神社考』三巻を著わし、伊勢神宮以下、主たる神社の由来を記した。その序文に次のように述べている。
わが国は神国である。神武天皇以来、相次いで皇位について来たが、これはわが天の神が授けられた道である。しかし、それも中世には衰微し、仏法が漢土の道を日本に広め神道は廃れた。そこで伊奘諾(いざなき)・伊奘冊(いざなみ)は梵語であるとか、日神とは大日如来のことで、大日の本国だから日本国というとか、本地の仏がその跡を日本に垂れて神となって権現というとか、仏教による教説が広まった。わが国の貴族たちはそれを信じて事実を語らず、ついに神社と仏寺とを混同させるに至り、神官と僧侶が同じ所に住んでいる。ああ神があっても無きにひとしい。・・・願わくは世の人がわが神を崇めて仏を排すれば、国家は上古の淳直さを回復し、人民の生活は清浄さに至るだろう。
中国に広まった仏教は、現世を否定し、怪異の説を立てて人心を惑わし、寺を作り仏像を造るために財を浪費して、人民の生活を苦しめていると、既に中国の宋時代の儒学者によって排撃されていた。羅山の説はそれを受けて、仏教を攻撃した。
仏教を排撃した羅山は、宋代の儒学を身につけていた。羅山は中国の文明が卓越していることを認め、実のところ日本がその文明国に包含され、文明に至ることの可能な国であることを立証することを考えていた(日本橋から品川に引越した荻生徂徠(1666~1728)が、中国に一里近くなったと喜んだという話が想起される)。
羅山は、中国の古代の泰伯が日本に渡来し、皇祖となったという説を信じ、三種の神器も泰伯の持参したものだと論じた。これはまさしく、思考の中軸が仏教のインドから儒教の中国へと移行したにすぎないものと言える。
カミとホトケの分離を目指した儒学者たちは、ホトケの教説の代わりに儒学の教説に頼った。だから、カミを説くその教説は根源的に無理があり、全く説得力を持っていない。奈良時代以来、それぞれの時代の英才は漢文を読んで、インドの仏教思想、中国の史実や哲学を学び、理解することに心魂を傾けた。その結果、カミを独立させようとしながら、結局本質的に相違するホトケと儒学の枠との中に戻ってしまったのである。
第二十二回 -本地垂迹-
「権現」という名については既に述べた。日本ではまた別に、それを本地垂迹といっている。「本地」とは、インドの仏菩薩といい、それが仮の姿をとって現われたものを「垂迹」というのである。この本地垂迹という考えを鎌倉時代の仏教説話集の『沙石集』に求めてみよう。
本地垂迹ということは中国にもあったことである。仏法を広めるために儒童と迦葉と定光という印度の三人の菩薩が、かりに孔子・老子・顔回という姿をとって中国に現われ、それぞれ儒教・道教の書物によって人々の心をやわらげ、その姿に仏教を広めたから、中国の人々は皆仏教を信じた。わが日本国では、威力をやわらげた仏教の神々がまず現われて人々の荒い心をやわらかくして、仏法を信じる方便とされたのである。
薬師如来や大日如来が日本の香取神宮、伊勢神宮に関係するといった考えは、平安時代以降に仏教徒の間から広められた説き方、考え方で、中国の孔子・老子がインドの菩薩の仮の姿であるということも、無智な人々に対する教化のための単なる方便的言説である。
しかし、こうした言説の結果として、ホトケとカミとは本来同じもので、同じ働きをするという考え方が日本の民衆の間に行きわたった。こうした神仏の習合は、いわゆる神道において顕著である。
第二十一回 -神仏習合-
何百というカミがいるのだから、ホトケというカミが一つ加わったとて何ということはなかった。ただホトケは立派な仏像であった。このホトケは人間の苦を救済するものであるという。法隆寺をはじめ多くの寺々が建てられ、天皇みずから仏教に帰依し、東大寺のような巨大な仏像を持つ仏閣が着々と造られた。
仏教の信仰は八世紀ごろには、徐々に社会の上層から下層へと及んでいった。その結果としてホトケとカミの融合が生じ、ホトケの持つ「救済」という観念がカミの意味を変え始めた。そうしたカミとホトケの融合を神仏習合といっている。
神仏の習合と見られる現象の最も古い例の一つは「神宮寺」の建立である。神社と寺院は本来異なる思想・観念によって建てられた建物であるのに、神社の中に寺を建てる。これを神宮寺という。
また別の例として、天皇の仏法帰依を挙げることもできる。天皇はカミの子孫である。それが仏弟子となっていることが奈良時代から平安時代以後にかけて甚だ多い。
元明・聖武・孝謙・平城・純和・仁明・清和・陽成・宇多・醍醐・朱雀・村上・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・土御門・後嵯峨・後深草・・・
この二七天皇の中で法名を受けた天皇は一七人に及んでいる。退位後出家して法皇となった天皇はこれ以後を含めて三五人見出される。これはわが国での流布が早くから深く広く進行したことを示す事実である。
第二十回 -仏教の伝来-
記録を見ると、『上宮聖徳法王帝説』では538年、『日本書紀』では552年となっている。ともに百済の聖明王が仏像と経論(仏の教えを記した経と、経の注釈書である論)とを献じたとある。
仏教の渡来に関する記述には、いつも仏像と経論が並べて書かれている。これは注目すべきことである。というのは、仏教の伝来のときに、経論だけではなくて、必ず仏像を伴っていたことが、当時としては人々に大きな衝撃を与えただろうと思われるからである。
すでに述べたように日本在来のカミは、形は無いものであった。人間が五穀豊穣や国家の安穏を祈る際にはカミの来臨のために「ヒモロキ」(神籬)や「岩クラ」などと呼ばれる臨時の神の座を作って、そこにカミを招請して、数々の食べ物を捧げ、祈願する。
祈願が済むとカミは帰還せられる。そのありかは定かならぬものである。カミはいつも天や山などの高いところなど、人界とは隔絶した場所にいて、人間には見えない存在だった。
ところが新たに輸入された「仏」は精妙な美しい像であった。それが立派な堂舎に安置される。人々が新来の「仏教」なるものに接したとき、その経典を読み、その内容を理解することは到底一般の人には不可能だったはずである。したがって、「仏教」はその教義よりも「目に見える像」を拝むものであった。
当時の貴族も一般の民衆も、その新来の偶像と堂舎の精巧な美しさに驚き、これを拝み、これにひざまずくことが幸福をもたらすと聞いて、誰しもそれをあがめ、礼拝する心を持っただろう。
第十九回 -アニミズム-
動物・植物・自然物・自然現象にわたって、それぞれに宿り、それを生かしている精霊があり、その精霊は超人的存在で人間には見ることが出来ないけれども、それは物を離れて独自に動き回る実体で、人間同様、喜怒哀楽の心意を持つといわれている。
そうした信仰をアニミズムというとすれば、古代のカミの持つ性格、①カミは極めてたくさんのものについて存在している、②カミの姿・形は見えない、③カミは依り代となるものを離れて存在することが出来る、という日本のカミの性格は、アニミズム的信仰が日本のカミ信仰の基礎としてあったことを示すものである。
これは日本人のカミの意識の根底にあって、今日まで尾を引いている。「鰯の頭も信心から(鰯の頭のようなものも信仰心があるものには、尊いものと思われるという俗諺)」といわれるのも、その由来はここにある。これはキリスト教のGod、イスラム教のアラー、またギリシャ神話の神々と日本のカミとの根本的な相違である。
第十八回 -カミへの日本人の接し方-
古代日本人がカミに対してしてきたことは、第一にマツルことである。
カミを招請して祈願するには、必ず山海の美味・珍味を捧げた。マツルとは起源的には、食物を供え、酒を差し出すこと。マツリとは現在では「桜まつり」「古本まつり」などと広く神事に関係のないことにも使う。
しかしマツリは本来、カミに祈願するために酒食を捧げることであるから、小集落・村・国とそれぞれの単位ごとに、各地に神社が建てられると、毎年豊作の祈願と感謝の祭りが行われた。そこでは、カミを喜ばせるために酒食を供する他に歌舞なども行われた。
国家の長としては、カミへの奉仕をすることが最大の役目であったから、「マツリゴト=神への奉祭=政治」という考え方が成り立ち、日本語では政治をマツリゴトと言い習わしてきた。つまり日本では政治は、人々が集まって多数で決議することによって始まったのではなく、神に物をマツり、神の加護を求めることに始まり、その系譜で引き継がれてきたことが分かる。
カミに対して奉仕するものはそれに先立って自身を清めるためにミソギやハラエをする。罪をケガレと捉え、罪を外側についた汚れと考える。だから、ミソギをすれば、つまり水に入って洗い流せばよいと考える(わだかまりを「水に流す」のもそれである)。ハラエもまた、身の罪または過ちを捨て去ることであり、今日でも御幣を振るってオハライをする。
人間はまたイノリをした。イノルとは、願うことを持つときに、カミを呼ぶことで、そのとき頭を下げるのをノムまたはナムといい、両手を合わせて祈ることをコウ(乞)という。
これらの動作を通して、また祝詞の本文を見て理解できるカミの最も根本的な役割は、産土神(居住する地域を守り、その生産をもたらす神)であっただろう。ウブスとは「産むす」であり、「生産サセル」こと。ナは「土地」であるから、産土神は「生産をもたらす土地を領有し、支配する神」ということだったであろうと考えられる。
第十七回 -日本のカミとは?-
日本のカミの特性の第一はカミが多数いるということである。
カミに対する古代日本人の観念は祝詞(のりと)によく表現されているから、最も古い延喜式祝詞を見ると、その祝詞を奏上して祈願する相手のカミは高天原の神だけではない。風の神・火の神、さらには竈の神・大殿の神・御門の神・道の神など、それぞれの場所にカミがましまして、それぞれの安穏を守護するとされている。
カミはもともと唯一最高の神として絶対のものだというのではなく、一つのカミが全体を統括してもいない。ギリシャ神話の神々、例えばデメーテルやアフロディテのような女神、あるいはゼウスのごとく、人間のように愛したり、策略を用いたりなどの行動を自由にする人格神となるのは、記紀の神話の部分に現われるカミの場合だけである。
日本のカミはいろいろな場所にいる。『古事記』の中には三百以上の神がいて、「水蒔きの神」のように、行為そのものまでも神として扱われている。
②カミは具体的な姿・形を持たなかった。
今日では、カミを祀る設備として神殿があり、鏡とか、玉とか剣とかを御神体とする神社はいくつもある。また「乃木神社」などのように人を祀った神社もある。
しかし古い時代には、一般的に社(やしろ)というものもなかった。奈良時代に近くなって、ようやく増え始めて、現在は日本中に神社がある。神社が造られ始めたのは、仏教に寺院があることが影響していると考えられる。
三輪山などは、現在もそこに御神体を納める建物はなく、山そのものが御神体とされている。那智の滝は滝そのものが御神体である。
祝詞を奏上してカミの来臨を仰ぎ、美味・珍味を豊富に供えて願い事を言上する。それが済めばカミは天へ帰還される。人はカミの姿を見ることはなかった。
だから、雄略天皇は葛城の一言主の大神の姿を見ても神と気づかず、お前は誰かと問い詰めてしまった。後に天皇はそのことをカミに向かって陳謝し、カミが「ウツシオミ(この世の人の姿)でおいでとは思いませんでした」と言っている。
③カミは漂動・彷徨し、時に来臨し、カミガカリした。
カミは姿かたちがなく、物や場所に固着・定住せず漂動し、招きに応じてそこに来臨し、また人間にとりつき、カミガカリして宣託するという根本的性格を持っていた。この性格があるからカミは後世、九州から関東にその分霊を祀ることもできたし、総本社の神霊を多くの支社に迎えることもできた。
降下して来たカミは祭礼に当たって「旅なる所」に出かけることもあった。「タビ」とは 「一時的な滞在」の意を表す言葉だった。
カミはカミガカリする。「カカル」とは、物に覆いかぶさるようにして、自分の重さを相手にくっつけて、ぶら下がること。「カミガカリ」は、彷徨・移動するカミが人間あるいは樹木・岩石・枝などにヨリツクのである。「託」「憑」という漢字は「ヨル」と訓み、「神がかりする」意に使うが、「ヨル」とは移動・流動するものが、何かの物、あるいは事に一時的にツクことである。
④カミはそれぞれの場所や物・事柄を領有し支配する主体であった。
古代のカミは山や坂や川の瀬などを領有・支配していた。それの場所を通過するにはカミに捧げ物をして、通行の許可を乞わねばならなかった。
具体的には見えないカミが、それぞれの場所を領有し、支配しているという観念があるから、そこを通行するときに手向けの幣(ぬさ)を捧げた。また、先に記したように風の神・火の神・竈の神などが、祝詞を奏上する対象となっているのも、それぞれを支配するカミがいると認められていたからである。
また、土地にはそれぞれの土地を領有するカミがいるので、土地を占有して建築物を建てるときには、現在でも地鎮祭をする。それは、物を供えて、その土地の領有者であるカミの許可を乞うことである。
地鎮祭の趣旨は、古代社会の人々が峠のカミに供え物をしたのと根本的には同じである。
日本国全体を念頭に置くときには、その生産の豊穣・社会の安寧を全体として支配するカミがあると考えられ、それに物を供える。
⑤カミは超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。
カミは雷や猛獣のような超能力を持つ領有者・支配者である。カミはその意向を貫徹する力を持っている。カミは自由に漂動するだけでなく、人間に神がかりして託宣する。託宣において、カミは時には人間に対して要求をする。このカミの意向に背くとタタリが生じ、その超人的な力によって、たちまちその被支配者である人間に死が与えられる。
カミは人間に対して、恐ろしいタタリをすることがある。領有者・支配者なのだから、人間に要求を宣託したときに人間が応じないならばタタル。
「神のタタリ」とは、神の怒りが自然の作用として沸き立つことをいう。領有者・支配者の怒りが現出すると、被支配者は傷つき、死に至る。現在でも病人が続いて発生したり、凶事が重なったり、事故が続発したりすると、タタリではないかという。
それは「神の腹立ち」の結果かと思うわけで、オハライをする。「ハライ」とは、自分の犯した過ちや罪・ケガレを払い捨てる行為なのである。
2008年3月7日金曜日
第十六回 -天皇権威の低下と存続 江戸時代-
しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、天皇に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
第十五回 -天皇権威の低下と存続 鎌倉~戦国時代-
中世の国家体制は、一般的に天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴づけられる。
荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、モンゴル襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。
鎌倉幕府の崩壊後、一時天皇親政が行われたが、その後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。 この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府四代将軍義持がこれを固辞している(義満が自分より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためといわれている)ので、その真相については未だ定かではない。
戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しく、烏帽子を逆さまにして物乞いをしたり、共同浴場に出向いたりする公家も生じるようになったが、有力戦国大名や織田政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。
第十四回 -武士政治の誕生 平安~鎌倉時代-
朝廷は国司に地方政治を任せ、国司は有力農民を役人に取り立てて徴税に当たらせるようになる。また、有力農民は新しく開墾した土地を、税を免れるために荘園として貴族や寺院に寄進し、自らは荘園の管理者となって勢力を伸ばすようになる。
その中から、領地を守るために武装する集団が現われた。これが武士である。
武士集団は血縁を中心に勢力を広げ、やがて、清和天皇の子孫とされる源氏と、桓武天皇の子孫とされる平氏が力を持つようになる。
武士が政治力を持つようになったきっかえは、1156年に始まる保元・平治の乱であった。後白河天皇と崇徳上皇との対立が原因で、これに藤原氏や有力武士が加担して戦った。
天皇家の争いに、武士が大きな力を発揮したことから、武士は次第に政治に関与するようになる。平治の乱では平清盛が源義朝を破り、後白河法皇との関係を強めた清盛は武士として初めて太政大臣になる。
清盛の死後、源頼朝が平家一族を滅ぼし、政治の実権をにぎる。1192年、朝廷から征夷大将軍に任命された頼朝は、鎌倉に幕府を開いた。これが武家政治の始まりである。
第十三回 -天武天皇以後 奈良~平安時代-
その後、元明天皇の時代に710年に平城京へ遷都。
元明天皇の孫にあたる聖武天皇は、奈良の東大寺に大仏を造立し、752年には開眼供養が行われ、聖徳太子に始まる仏教理想に基づいた国づくりが一つの頂点を迎えた。これには、仏教に熱心な光明皇后の力も大きかったとされる。
794年、桓武天皇が京都の地に新しい都・平安京を定め、中国の歴代皇帝が都の南郊で天帝を祀る儀式を日本の天皇として初めて行うなど、最も中国皇帝を意識した天皇だった。吸収や東北などの辺境の地へも律令制度を浸透させ、東北に住む蝦夷の反乱には、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて派遣し、これを鎮圧した。
天皇の権威が確立してくると、天皇は直接的に政治に関わる必要が減ってきた。
一方、貴族の中でも天皇家に近い藤原氏は、一族の娘を天皇の后にし、その皇子を天皇に擁立することで、天皇の外威として勢力を伸ばすようになる。
藤原良房は866年、皇族以外の臣下として初めて摂政に就任した。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。
このように、藤原氏は天皇が幼いころは摂政として、成長してから関白として、政治の実権を握るようになった。
ここに権威と権力の二重構造という日本独自の統治システムが誕生する。
第十二回 -新嘗祭・神嘗祭・大嘗祭について-
古代農業社会において、祭りの中心は稲の収穫祭と豊穣祈願祭(予祝祭)であった。神に感謝をもって今年、収穫した稲を捧げ、翌年の豊穣を願うのが新嘗祭(にいなめさい)である。天皇は神に初穂を献上し、その後、神とともにその稲穂からつくられた御飯をともに食べる。ニヒナメはイネ(新穂)を食べる祭りを意味したものだからである。
神話では、天照大神が高天原で育てた原種を、天孫降臨に際して、皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けているので、新嘗祭には、皇祖神に感謝し、神とともに新穀を食べることで、天皇の徳を増すことができるという意味合いも込められている。
新嘗祭には、決まった斎田で収穫した新米でつくった御飯のほか、御粥、白酒、黒酒、新粟の御飯と御粥、鮮魚、干魚、果実、お汁、お羹など多種多様な食べ物が神前に供えられる。神嘗祭(かんなめさい)は伊勢神宮で行う新嘗祭で、その年に取れた新穀を天照大神に奉る儀式である。
新天皇が即位後、初めて行う新嘗祭を大嘗祭(だいじょうさい)という。つまり、新嘗祭の大祭りで、四日かけて大がかりに行われる。新天皇を完全な天皇にする祭りとして厳修されている。
第十一回 -天皇の本質は「祭り」をすること-
それは、大王と呼ばれた豪族の長の時代から、豪族たちの連合政権である大和朝廷、そして律令国家としての天皇親政、摂関政治を経て、近代の立憲君主、戦後の象徴天皇に至るまで、一貫して不変である。天皇が祭祀王というのはそのような意味である。
政治が「まつりごと」といわれるように、かつて神にお祭りをすることと、政治を行うこととは同じことであり、天皇制度は祭政一致の制度として成立した。
二~三世紀の日本には、卑弥呼のようなシャーマンの坐王(ふおう)が多くいたが、古代王権における天皇は、坐王から遠ざかり、祭祀王の性格を確立していた。なぜなら、坐王は強い霊感を持った女性である場合が多く、個人的資質が重要なため、王権の継続は難しい。
それに対して、儀礼の執行者である祭祀王は、特別な才能が求められることはなく、何より血統によるカリスマで、安定した王朝と権力の継承を実現することができる。天皇が早期に祭祀王としての権威・制度を確立したことが、以後の安定した政権につながったのである。
2008年3月6日木曜日
第十回 -天皇をめぐる神話 その四-
大阪湾から上陸しようとしたが、手ごわい長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭い、兄の五瀬命(いつせのみこと)は流れ矢で戦死してしまう。
そこで迂回して熊野に上陸し、大和を目指す。険しい山中で悪神の毒気にあてられて病気になり、軍勢の士気はふるわなかった。だがアマテラスの神助があり、巨大な八咫烏(やたからす)が道案内をしてくれる。
天皇は抵抗する豪族を討ち平らげて進軍を続け、金色に輝くトビの助けもあって、強敵の長髄彦を破り、帰順させた。
大和を平定した神武天皇は、畝傍山の東南にある橿原に立派な宮殿を造り、初代天皇の位に就いた。これが大和朝廷の起こりであると伝えられている。
大和朝廷がつくられるころのわが国は、多くの豪族が勢力争いをしていたものと思われる。豪族のすぐれた指導者像について、古代人の理想に基づいて描き上げたのが、神武天皇の物語だったと考えられる。それが、そのまま歴史上の事実とはいえないにしても、古代の人々の国家や天皇への思いを知ることができよう。
豪族はそれぞれの神々を祀っていたので、統合されていく豪族の姿を、神々の物語として残したのが神話であろう。戦いの過程で行われた、降伏や和睦、縁戚関係を結ぶなどの儀式の中で、それが物語化され、神々の系図がつくられたものと考えられる。
第九回 -天皇をめぐる神話 その三-
日向では、ニニギが山の神の娘であるコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)と結婚し、二人の男の神を産む。それが、海の獲物をとるのが得意なウミサチヒコ(海幸彦)と、山の獲物をとるのが得意なヤマサチヒコ(山幸彦)だ。
山幸彦は兄の海幸彦と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、兄に責められる。山幸彦は釣針を探し求めるためにシオツチノカミ(塩椎神)の教えにより海宮(龍宮)に赴く。そこで、海神(豊玉彦)の娘・トヨタマヒメ(豊玉媛)と結婚し、釣針と塩盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させた。
山幸彦と豊玉媛の子がウガヤフキアエズノミコト( 鵜葺草葺不合命 )で、この神が海神の娘・タマヨリヒメ(玉依)姫と結婚して四人の神を生んだ。その末の子が初代天皇の神武天皇である。
第八回 -天皇をめぐる神話 その二-
大蛇を切り殺したスサノオは、クシナダヒメと結婚する。大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたので、スサノオはこれをアマテラスに献上した。
さきに高天原で造られた八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と、この天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)がいわゆる「三種の神器」で、皇室に受け継がれて皇位の印となる。
スサノオの子孫であるオオクニヌシノミコト(大国主命)は、芦原中国(あしわらなかつくに)の国づくりを始める。アマテラスら高天原の神々(天津神)は、芦原中国を統治すべきなのは天津神、とりわけアマテラスの子孫だとし、何人かの神々を出雲に使わした。
オオクニヌシも自身の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。これが「国譲り」の神話で、この宮殿が後の出雲大社である。この神話は、大和朝廷による出雲地方の平定からつくられたものとされている。
第七回 -天皇をめぐる神話 その一-
天地の創造は、天の国である高天原に三人の神が生まれる場面から始まる。アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)が「造化の三神」と呼ばれる神で、続いて二神が生まれる。これら合計五神は特に性別はなく、すぐに身を隠す。以後、表だって神話には登場しないが、根源的な力を持つ神々とされている。
やがて、地からもいろいろな神々が出現し、やがて初めて男女の神としてイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)が現われ、結婚して八つの島々を産む。これが国産みの神話である。イザナギとイザナミは、淡路島をはじめ四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と八つの島を産んだことから、わが国は「大八島国(おおやしまぐに)」とも呼ばれることになった。
その後、イザナミは火の神を産んだために死んでしまう。イザナギは妻を慕って、死者の世界である黄泉の国まで追いかけて行くが、そこで妻の腐乱した姿を見て驚き、逃げ帰ってしまう。
黄泉の国で穢れてしまったイザナギは、日向の阿波岐腹で禊をし、身を清める。その時、左の眼を洗ったときに生まれたのがアマテラスオオミカミ(天照大神)で、皇室の先祖となる太陽神である。続いて、右の眼を洗うとツクヨミノミコト(月読命)が現われ、鼻を洗うとスサノオノミコト(須佐之男命)が生まれた。アマテラスは太陽の女神で高天原を治め、ツクヨミは月の神で夜の世界を治め、スサノオは海を治めることになる。
ところが、スサノオは、母イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、そのすさまじさで天地に大きな被害を与えた。そこで、スサノオは根の国へ行く前に、姉に挨拶をしようと、アマテラスが治める高天原へと登っていく。これに対してアマテラスは、乱暴者のスサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、ものものしく武装して迎えた。
スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、身につけている物などから子神を産み、その性別により身の潔白を証明した。これを見てアマテラスはスサノオを許したが、その後も、スサノオは、田のあぜを壊したり、女性が織物をしている所にはいだ馬の生皮を投げ込んだり、とんでもない乱暴を働く。
心を痛めたアマテラスは、入り口が大きな岩でふさがれた天岩戸の中に隠れてしまった。日の神であるアマテラスが隠れたため、世界は真っ暗闇になり、高天原の神々は困ってしまう。そこで八百万の神が集まり、どうすればよいか相談した。すると、とにかく賑やかに騒いで、アマテラスが不思議に思って外をのぞき見ることにしようということになった。
神々は八咫鏡(やたのかがみ)や八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をつくり、それを榊につけ、フトダマノミコト(布刀玉命)が御幣として捧げ持った。アメノコヤネノミコト(天児屋命)が祝詞を唱え、アメノウズメノミコト(天宇受売命)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、胸をさらけ出して、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。その滑稽さに、八百万の神々が一斉に笑い、まるで高天原全体が鳴り響くようだった。
神々の賑やかな笑い声を聞いたアマテラスは、何事だろうと思い、天岩戸の扉を少し開け、アメノウズメにわけをきいた。アメノウズメが「あなた様より貴い神が現われたので喜んでいるのです」と答えるのと同時に、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前に鏡を差し出した。
アマテラスは、鏡に映る自分の姿をその貴い神だと思い、もっとよく見ようと岩戸をさらに開けた。そのとき、隠れていたアメノタヂカラオノカミ(天手力大神)が、アマテラスの手を取って岩戸の外へ引きずり出した。こうして、高天原も葦原中国(あしわらなつくに)も明るさを取り戻したという。
2008年3月5日水曜日
第六回 -神話と血統が支えた皇統観念-
大王の団塊に、大王が天つ神の子孫(天孫)であるという観念は芽生えていたが、まだ漠としたものであり、奈良時代以降のように、天照大神の直系の子孫という明確な形の皇統観念にはなっていなかった。
天皇が天皇であることの根拠は、「天孫降臨」の神話にあった。天皇号の成立時期にあたる天武朝に建国神話の体系化が推進され、八世紀はじめの記紀の成立によってそれが定着していく。
中国では、天と地上の支配者を結びつけるものは天命という抽象的な概念であったのに対し、日本では天孫降臨という具体的な神話であり、君主の資格としては、天照大神の直系の子孫という血統(これはもちろん事実ではなく、観念的なもの)が重視された。神話と血統が天上世界と地上の支配者を結びつけていたのである。
天皇が"神"であるといっても、天皇が人々の信仰の対象となっていたというわけではない。天皇は何よりも国家支配を正当化する究極の政治的な権威として存在した。
律令体制下、国家統治の法はミコトノリ(詔・勅=天皇の命令)として発布された。
"神"である天皇の名において国会意志としての法が発布され、その神的権威によって国家意志への服従がうながされたのである。天皇は"神"に飛躍することに成功して、はじめてこの究極の権威の源泉という地位を手にすることができたといってよいであろう。
第五回 -「穢れ」の対極としての「天皇(スメラミコト)」-
スメラミコトとは、「一点の穢れもない、この世で最も清浄なお方」ということである。
それでは、「清浄な」「一点の穢れもない」とは、具体的にどのような状態をあらわすのであろうか。
ここで手がかりとなるのは、初代の天皇=スメラミコトとなった天武が、即位のきっかけとなった壬申の乱において、軍事指揮権のすべてを長子の高市皇子に譲り、自身は一貫して戦線のはるか後方にあったことである。それは、一つには天武が当時僧侶だったためで、法体の身で陣頭に立つことを避けたためであろう。
当時は、死や流血は穢れ(「気枯れ」すなわち生命力の減退・消滅)として宗教的に忌むべき対象とされていたので、天武が死や流血に満ち満ちている戦場に一切その身をさらすことなく、未曾有の勝利を得て即位したことが天武の評価を飛躍的に高め、決定的なものとしたのである。
結果的にその一点が評価され、即位した天皇は「清浄な」「一点の穢れもない」極致に位置する存在と見なされるようになった、と考えられるのである。天皇の和訓であるスメラミコトも、壬申の乱から生まれてきたといえよう。
天皇は後に、天皇のこのような「清浄な」「一点の穢れのない」状態が、自分だけでなくその後継者たちにも確実に引き継がれていくために、古代特有の身分制度を創始した。
天皇とその一族と同様に姓をもたない階層を社会の底辺に設定し、かれらを国中の穢れが付着した賤身分としたのがそれである。これにより、賤身分のもつ穢れが強調されればされるほど、天皇の清浄性は制度的に保証され、その子孫たちに確実に継承されていくことになった。
2008年3月4日火曜日
第四回 -「天皇」の誕生-
ほとんど丸腰で反乱に立ち上がり、朝廷に対して勝利をおさめた大海人皇子の権威はいやが上にも高まり、大海人皇子は英雄として神聖視されるようになっていった。
大海人皇子は673年に即位し、天武天皇となった。
ここで日本史上、初めて「天皇」という称号が使われたと考えられている。
「大王」から「天皇」への称号の変化は、"王中の王"から"神"への飛躍を意味していると考えられる。
大王はオオキミと訓み、王の中の大なるもの、すなわち首長のなかの最有力者という意味である。
それに対して、天皇は古代の和訓ではスメラミコトと訓み、スメラは「清浄な」「一点の穢れもない」という意味であり、スメラミコトとは政治的・宗教的に聖別された「神聖なお方」という意味である。
『万葉集』には、「壬申の乱平定(しず)まりにし以後の歌」として、
「大王は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 京師(みやこ)と成しつ」
「大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)と成しつ」
の二首がのせられている。
壬申の乱後、天武は"神"とあがめられる存在になっていたのである。
伝統的な権威とは質的に異なった、新しい神的権威を有する君主がここに誕生したのである。
第三回 -「仏教の伝来」をめぐる権力争い-
欽明天皇は、そのとき仏教を日本にとり入れたいと考えていた。そして、蘇我稲目も仏像をまつるべきだといった。しかし物部尾輿は、異国の神を拝んではならないと主張した。そこで、大王は朝廷が仏教をうけ入れることは先送りにするといい、蘇我稲目だけに仏をまつらせた。
欽明天皇の子供の時代になると、宮廷に大陸のすすんだ文化の一つとしての仏教をうけ入れるべきだとする気運が高まった。そのため、欽明天皇の王女で日本最初の女帝となった推古天皇は、聖徳太子にはかったうえで仏教興隆の詔を出した。
七世紀なかばになると、大王を宮廷のまとめ役ではなく中国の皇帝にならった専制的な支配者にしようとする動きが起こってきた。蘇我入鹿を討って大化の改新を行った中大兄皇子(天智天皇)がこの動きを主導した。
天智天皇は、王位を自分の子の大友皇子につたえたいと考えた。多くの豪族がこれに反発し、かれらは天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)についた。これによって、大友皇子と大海人皇子のあいだで皇位争いが行われることになった。
これが古代最大の争乱である壬申の乱である。
第二回 -大和朝廷の「中央集権化」-
大和朝廷の成立のときに、大王などの有力な首長は、なくなったのちに力のある神になるとする信仰がつくられた。それを、首長霊信仰という。
この考えにもとづいて、神となった首長をまつる古墳がつくられている。
古墳の広まりは大和朝廷の勢力圏の拡大に対応すると考えられ、古墳の分布から、五世紀末に大和朝廷は、東北地方南部から九州地方中部にいたる範囲のおもだった地方豪族をその指導下にくみ込んだと思われる。
六世紀はじめに継体天皇(この時代に「天皇」の称号は使われていないが、のちの人が「継体天皇」とよんだ人物という意味でこの語を使う)が立った。そのころから、王家は地方豪族の勢力を押さえて自分たちを日本全体を支配する権利をもつ唯一の集団として位置づけるようにともくろみはじめた。
そのためには、朝廷が地方豪族にたいして政治的・軍事的に絶対的優位にたつ必要がある。そして、そのうえで地方豪族がまつる神を王家の神の下におかねばならない。
まず、王家の守り神が、「大和の国魂」から王家の祖先神で太陽の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)にかえられた。そして、天照大神に仕える神々を天神(あまつかみ)とし、あちこちの土地をまもる農耕神が国神(くにつかみ)とされた。
この時点で、三和山の神は大物主神(おおものぬしのかみ)という国神で、その別名を大国主命と唱えられるようになった。そして、地方豪族がまつる農耕神は、すべて大国主命が形をかえてあらわれたものだといわれた。
天神は国神より上位におかれた。そして、中央の豪族は王家から分かれたものや天神の子孫から成るとされた。蘇我氏や春日氏は、古い時代に王家の分家になったといい、大伴氏や中臣(藤原)氏は天照大神に仕えた神の子孫だと唱えた。
そして、地方豪族の多くが国神の子孫だとされた。これによって、大王を頂点にして王家のつながりの親疎にもとづく豪族の序列がつくられることになった。
2008年2月25日月曜日
第一回 -大和朝廷の誕生-
「大王」から「天皇」への転換は、朝廷の性格を大きくかえて、それから後の天皇制のありかたを規定することになった。大和朝廷の成立期の大王は、国内に多くいた主長の一人と大してかわならい権威しかもっていなかった。
あちこちにいる「キミ」のなかの有力なものが「オオキミ」である。大和朝廷の指導者としての大王は、六世紀はじめまでは、その程度のものであった。
大和朝廷は、三世紀なかばに誕生した。奈良盆地の東南部にある三輪山のふもとを勢力圏とする勢力であった。奈良県櫻井市の纒向遺跡は、初期の大和朝廷の本拠地のあとである。
そこに居住した集団は、大和川とその支流を用いて積極的に交流を行い、巨大な古墳を生み出した。このような大和朝廷の指導者が大王であった。かれは、はじめは大和の地をまもる神の祭司の資格で、人びとを指導した。
つまり、かれは『魏志倭人伝』が、
「鬼道につかえて、よく衆を惑わす」
と記した邪馬台国の卑弥呼とほぼかわらない立場にあった。
大和の土地の神は、「大和の国魂」とよばれた。それは、のちに大物主神の名で、三輪山のそばの大神神社で祭られるようになる。
大王は、位についたときに「大和の国魂」と一体化すると考えられた。天皇が即位ののちに行う大嘗祭は、神霊をよびこんで新しい天皇の体に付ける儀式である。それが行われてはじめて、天皇は人間の体をもちながら神の力を使う「現人神」にかわるとされた。
天皇号が作られた時期に、「大和の国魂」は単に「みたま」とよばれるようになり「天皇霊」と書かれはじめる。これは、天皇が大和国だけの支配者ではなく、日本全体の支配者だとする発想からなされた転換である。